UNOBITUARIES OF HEROES / ALAN TURING

いつかどこかで。ヒーローたちの足跡。/アラン・チューリング 2/5
ISSUE 2
TEXT MASAO MORITA
神よ
変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を、私たちに与えてください。
変えることのできないものについて、それを受け入れるだけの、静かな心を与えてください。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を、私たちに与えてください。
静隠の祈り(Serenity Prayer)

これがもともと誰の言葉か、定かなことは知らないが、いつしか耳にして以来、深く印象に刻まれている。人生には変えることのできることと、変えることのできないことがある。もし、あらかじめその両者を見分けることができたなら、どれほど生きることは楽になるか。

残念ながら現実は、そう上手くはいかないものだ。変えられないことを変えようと躍起になったり、変えられるはずのことを投げ出したりしてしまう。可能と不可能の境界に翻弄されながら、本当の「知恵」にはなかなか辿り着きそうもない。だからこそ、不可能に見える何かを軽々と可能に変えてしまう人間を、人は「英雄」と呼んで眩しく見上げる。

アラン・チューリング(1912〜1954)というイギリス生まれの数学者がいる。知性の可能性と不可能性の境界に立ちながら、どこまでも可能性の領野を押し広げようとした彼は、間違いなく二十世紀を代表する「英雄」の一人と云っていいだろう。

彼は最初の大きな仕事を、学生時代に成した。学位論文の中で「チューリング機械」と後に呼ばれることになるアイディアを導入し、「計算可能性」という概念に数学的な定式を与えた。その上で、この世には「計算」によっては決して解の出せない問題があることを、鮮やかに示してみせたのだ。そうして彼は、数学における最も重要な手続きである「計算」が、本質的に抱える限界を明らかにするとともに、その過程で「万能チューリング機械」の着想に辿り着き、現代的なコンピュータの理論的な発明者となった。

その後も彼の生涯は、「限界」を「可能性」に覆していく場面の連続である。

第二次世界大戦が始まると、ナチスドイツの悪名高い「エニグマ暗号」の解読に従事して、解読不能と呼ばれたそれを、巧みに設計された機械の力を借りて破ってみせた。戦後は自らの理論が生んだデジタル・コンピュータを改良して、それに「知能」を持たせるという壮大な夢に情熱を向けた。人間的知性など、コンピュータには到底持ち得ないと考えるのが常識だった時代において、彼はあくまで機械の持つ「可能性」の方を見続けた。現代的な人工知能研究のアイディアの多くは、いまだに彼に負うところが大である。

生前最後に発表された論文は『解ける問題と解けない問題』と題されている。その中で彼は、様々なパズルを紹介しながら、一般的にパズルが解けるかどうかを機械的推論によって判定することが不可能であることを解説している。解けるパズルと解けないパズルの境界は、そう簡単には見分けられない、というのである。

結局、問題(パズル)に直面した人間は、それが解けるかどうかわからないまま、解けるはずだと信じて突き進むほかない。いざ解決できれば、それは解ける問題だったのだとわかるが、それまでは、永久に解けないのではないかという不安に苛まれ続ける。

チューリングは、可能性と不可能性の境目を、あらかじめ見分けることの不可能性を知り抜いていたのだ。もとより、可能性と不可能性を正確に見分ける超人間的能力を持っていたわけではない。が、可能性と不可能性を正確に見分けることの不可能性を知るという意味で、真の「知恵」を持ち合わせていた。その上で彼は、不可能かもしれない問題を前にしても怯まず、その可能性の方に賭けて挑み続ける「勇気」を失うことがなかった。

チューリングは言葉の本来の意味で「ラディカル」な人物であった。根拠のない権威やルールに屈することを嫌い、何事も原理にまで立ち返って思考せずにはいられない人だった。ラディカル(radical)とは、表面上の華々しさを云うのではない。むしろ、派手な花を咲かすことより、どこまでも根(radix)へと遡及していく泥臭さの中にこそ、真に抜本的(ラディカル)な思想は育まれるものなのである。

表面に纏った花を着飾ることに忙しい社会にとって、表層的な慣習に素直に流されようとしない思考の持ち主は、潜在的な脅威である。チューリングの生き方が、しばしば周囲と大小様々の軋轢や摩擦を生まずにはいられなかったのも、そのためだろうか。

例えば第二次世界大戦のさなか、国民防衛軍への入隊を志願した彼は、入隊を希望する正式な文書の中で「国民防衛軍の地域部隊に登録することは、責任を持って軍事訓練をすることであると理解しているか」という質問に対して「ノー」と答えた。単純にライフルの扱い方を身に付けたかっただけの彼にとって、その質問にイエスと答えることが、いかなる条件においても自分のためにはならないと、論理的に判断したからである。

案の定、ライフル銃の使い方を覚えた彼は、たちまち訓練に関心を失って、日々の行進などに参加することを止めてしまう。そんな態度が指揮官の怒りを買い、チューリングは法廷に呼び出されることになる。「これが非常に重大な違反であるとわかっているのか?」という法廷での尋問に対して、彼は「いいえ、私の国民防衛軍の登録申請書に、自分が軍事訓練に参加することに同意しないと書いております」と答えたという。ただちに申請書を確認し、そこに「ノー」と書かれているのを認めた大佐はこのとき、「すぐに出て行け!」と叫ぶのがやっとだったそうである。

こんなエピソードは笑い話だが、1951年の暮れ、ついに彼と社会の間に、人生を狂わせるほどの矛盾が生じる。この日、チューリングの家に泥棒が入った。彼はすぐに警察に報告をして、ついでに犯人はおそらく友人の男で、自分と男はこれまでに「3回セックスをした」と、警官の前で告白をした。国民防衛軍の志願書に「ノー」と書いたときと同様、彼は平然と事実を打ち明けただけのつもりであった。

ところが、すぐさまチューリングは、「著しい猥褻」の罪で起訴されて、12ヵ月に渡る保護観察処分と、女性ホルモンの大量投与による「治療」を言い渡されることになる。当時イギリスで同性愛は、厳しく法律で禁じられていたからである。暗号解読の功績で、戦争の終結を2年から4年早めたことによって、事実上1,000万人以上の命を救ったともいわれる英雄に対するには、あまりに酷い仕打ちだった。

可能性と不可能性の境界に立って、常に可能性の方を向いているのがチューリングである。彼は、この理不尽な逆境をも前向きに乗り越えようとした。こんなのは「お笑いぐさだ」と言って、保護観察期間中から、変わらず精力的に研究に取り組んだという。ところが、終局はにわかに訪れる。

1954年6月8日、チューリングは自宅のベッドで死亡しているのを、家政婦に発見された。枕元にはかじりかけのリンゴがあった。口からは白い泡が出ていて、青酸の特徴であるアーモンド臭を放っていた。

イギリスの大手新聞社が間もなく、青酸を飲み込むためにリンゴを使った自殺であるともっともらしく報じたが、実際にはリンゴに青酸が含まれていたことすら確かめられておらず、自殺を裏付ける有力な証拠があるわけではない。他殺や事故の可能性もあり、真相は未だ不明のままだ。42歳を迎える前の、あまりにも唐突な死であった。


菫(すみれ)程な 小さき人に 生まれたし

イギリス留学から帰国して、東京帝大の英文講師になった頃、この句を詠んだのは漱石である。この句に関して詩人の清水哲男氏は、「人として生まれ、しかし人々の作る仕組みには入らず、ただ自分の好きな美的な行為に熱中していればよい。そんな風な人が、漱石の理想とした『菫程な小さき人』であったのだろう」と論評している。

権威や無根拠な慣習を嫌い、作られた仕組みに与するよりは、知的世界の調和の追究に夢中だったチューリングもまた、本当は「菫程な小さき人」でありたかったのかもしれない。派手な花を咲かすことより、どこまでもその根を深くしていく、慎ましやかな情熱の持ち主だった。その掘り下げた根が、人間知性の大地の奥深くから養分を吸い上げて、地上に大輪の花を咲かせたのである。

「菫程な小さき人」に徹する心が、地上に大きな実を結んだ。社会の作る仕組みを嫌った男が、社会を熱狂させるヒーローになった。皮肉といえば皮肉だが、これも英雄に課せられた宿命だろう。


ALAN TURING 1

ILLUSTRATION - ALAN TURING IN FASHION ©YUSUKE KOISHI (KLEINSTEIN)


ALAN TURING 2

TURING BOMBE REPLICA AT BLETCHLEY PARK
チューリングが開発した暗号解読機「チューリング・ボム」のレプリカ。この解読機によってドイツの暗号、エニグマを破り終戦を早めたとされる。
©MATT CRYPTO - WIKICOMMONS


ALAN TURING 3

TURING BOMBE REPLICA AT BLETCHLEY PARK
©ANTOINE TAVENEAU - WIKICOMMONS


ALAN TURING 4

THE TURING MEMORIAL PLAQUE IN SACKVILLE PARK
石碑にはこう書いてある。
「コンピュータサイエンスの父、数学者、論理学者、戦時中の暗号解読者、偏見の犠牲者」
“数学。正しく見れば、そこには真実だけでなく、至高の美しさがある。彫刻にあるような、冷たく、厳粛な美しさが”。バートランド・ラッセル
©LMNO - WIKICOMMONS


森田真生

1985年、東京生まれ。独立研究者。全国各地で「数学の演奏会」などライヴ活動を行う傍ら、数学に関するエッセイや評論を発表している。処女作となる『数学する身体』(新潮社)が2015年10月に発売。

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