UNOBITUARIES OF HEROES / SHUSAKU ARAKAWA

いつかどこかで。ヒーローたちの足跡。/荒川修作 3/5
ISSUE 2
TEXT YUSUKE KOISHI
7月15日、敬愛する知人が亡くなった。こうして誰かの「死」に接する度、荒川修作(1936〜2010)のことをいつも思い出す。『Making Dying Illegal(死ぬのは法律違反です)』という難解な著書を残し、「人は死ねない」と公言していた人間のことだ。彼のことを説明するとき、いつも決まって言葉に詰まってしまう。アーティスト、建築家、思想家あるいは宗教家……。あらゆるインスティテューションの枠組みを捨てて総合へと向かわなければならないと語り続けた彼は晩年、自らを「コーデノロジスト」と称していたが、呼び方はおそらく彼にとって何でもよかったに違いない。独特のユーモアを交えながら怒る荒川の話は、時に落語を凌駕して愉快だった。彼との対談に立てば、相手の誰もが予定も調和もない緊迫に満ちた生身のストリートファイトに引きずり込まれ、聴衆はその観客となった。借り物でない自らの言葉で事物を語った彼のエピソードを集めれば毛沢東も青ざめるような、分厚い語録が出来上がるだろう。そんな彼のことをこうして言葉で描こうとすると、描像は気の抜けたソーダのようになってしまう。「言葉なんて全く信用できない」と言っていた彼の声を思い出す。

大学を卒業して初めての春、恩人が借りていた荒川修作の建築作品『三鷹天命反転住宅 –In Memory of Helen Keller–』の一室に、私は縁あって友人とともに一年間居候することになった。そこは仕切りがない竪穴式住居のような部屋で、蔵書は凸凹した床に積み重ね、天井に物を吊るし、必要最小限の物だけで生活をするきっかけになった。俗に言う「キャリア」を積むことを奨励する世相の中、都心から離れた街でただぼんやりと内省的に過ごすことには肩身の狭さを感じそうなものだったが、この家に居るとまるで穴蔵に住む動物のように平穏な気持ちで時間を過ごすことができた。壁の内外が複数の色に塗られたカラフルな建物の敷地内に入ると、外界から秘密基地に帰ってきたような安心感をいつも感じた。

荒川修作を実際に目にしたのはその年の春の終わり頃だっただろうか。黒い森のように生えた髪。眼は人間というより野生の獣のような光を放ち、小柄ながら骨格は逞しい。黒い服を着て、のしっ、のしっ、と歩く彼の姿は、生命という言葉を体現しているように見え、とても70歳を過ぎているようには見えなかった。そんな彼は部屋に入ってくるなり開口一番「いいか。君。人間は死なないんだよ。死ねないって言ってるんだぞ!」と睨みをきかしながら話し始めた。真正面から怒りと愛嬌が混在した表情で語られると、その内容は途方もないものであったのにも関わらず、不思議な説得力をもって響いた。彼の話を聞いていると、とうの昔に忘れてしまった、幼少時代によく知っていたはずの懐かしい爽快感を感じたのだった。

「我々はこの50億年、何のために労働しているんだ。科学も芸術も哲学もそれが何であるかを見つけるためだ。すべてのものは。それなのに、我々は何にもやってないんだぞ! 何一つもやらなかったんだぞ! 何を言ってるかわかるか? お前たちが使っているモノサシはみんな間違っているって言ってるんだ。カレンダーから、このモノサシからコンピュータまで全部間違っているんだ。ちょっと間違っているんじゃないんだぞ。始めから終わりまで、全部間違ってるんだぞ!」
東京藝術大学『美術解剖学講義』の講演から(2006年)

1961年、荒川は10数ドルのわずかな資金と瀧口修造の紹介で知ったマルセル・デュシャンの電話番号を握りしめ、マンハッタンへ旅立った。デュシャンにひどく気に入られた荒川は、アンディ・ウォーホルやジョン・ケージなどアメリカを代表するアーティストやギャラリーと知己を得て、数年の内に異国の地でアーティストとしての立ち位置を確実なものとした。パートナーのマドリン・ギンズと出会ってからは、ともに人の意識や認識の背後にある構造を考察し始め、1970年にヴェネツィア・ビエンナーレで『The Mechanism of Meaning(意味のメカニズム)』 という連作を発表する。デュシャンの『大ガラス』を一瞬彷彿とさせるこの連作は、平面作品として評価されただけでなく、そこに描かれた内容が意識についての本質的問題を主題としていたため、ドイツの物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクをはじめ、科学者や哲学者などの他領域の人々にも激賞を受け、彼は世界的に広く知られるようになる。この『意味のメカニズム』によって、彼は絵画へ引導を渡し、以後は人間の身体と経験に焦点を当てた作品や建築へと活動をシフトしていった。

多くのアーティストや知識人が、権力の濫用、政治体制、差別や戦争といった社会の不条理にプロテストしている。問題が大きく顕著であればプロテストはより大衆に支持され、パンクな振る舞いは時に称賛され経済価値として還元される。しかし、プロテストをしてもその問題が解消されないことを歴史が証明する中、我々は表現を通して何ができるのだろうか。それは本当の意味でプロテストになり得るのだろうか。荒川は「地球上で人は一番滅びた方がいい生き物だ」と話す一方、「新しい人間の種を作らなければいけない」と語り、「科学も哲学も芸術も何一つやってこなかった」と言いながら、「新しい科学をやらなくてはいけない」と吠えていた。彼は人の可能性を信じていたが、同時に激しく怒っていた。一体彼は何に怒っていたのだろうか?

「身体の世界では肉体というものを本当に忘れ去ってしまった。我々の時代は。特に、思想、芸術の世界では。身体の中でも肉体の動きというものをもう一度思想の中に入れるにはどのようにしたらいいか、そこでたどりついたところが建築だった」
『NHK映像ファイル あの人に会いたい「荒川修作(現代美術家)」』(2013年11月9日放送)

荒川修作がニューヨークに降り立った1961年。ナチス親衛隊のアドルフ・アイヒマンの裁判がエルサレムで行われた。ユダヤ人のみならず、ロマ人、障害者や同性愛者などの社会的マイノリティを含む数百万人以上の犠牲者を出したホロコースト。これに積極的に関わったアイヒマンは周囲が想像していた極悪人のイメージとはかけ離れた頭の禿げた平凡な男だった。人の命を記号として扱っていたアイヒマンは「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」と話し、「私は命令に従っただけ」と役人的に自らの無罪を終始主張し続けた。裁判を傍聴していたハンナ・アーレントは一連の様子を『Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil(イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告)』に記し、その悪の起源への問い掛けは多くの議論を呼び起こした。

荒川の怒りはアイヒマン的土壌を生む「人の業」に向けられていたのだと思う。彼が創造を通してプロテストしたのは邪悪なことを度々引き起こす、人の思考停止や物事を抽象化し、具体的な事柄を軽視する習慣であり、それを産んできた「常識」や「道徳」、そして「知識」の無力さだったのだろう。戦争で多くの死に接した荒川が、何かを語るとき、社会的マイノリティや、子供と高齢者に対する偏見、いじめや自殺の問題など、常に身近に潜む具体的な邪悪さに目を向けたのは、そこに簡単に表現できない「不条理の根っこ」の存在を強く感じていたからに違いない。

「日本のような国は希望とか自由って言葉が、どこの道にも本にもないんだよ。その二つの言葉について真剣に考える人がおよそいないんだよ。なぜなら、そのようなことを考える場所を与えられていない。希望のあるような家とか風景がないの。自分たちが住むアパートメント、自分たちが住む家、自分たちが住む町内会。そこが聖地にならなくちゃいけない」
『NHK映像ファイル あの人に会いたい「荒川修作(現代美術家)」』(2013年11月9日放送)

改めて、荒川修作が「死」という天命(Destiny)を否定した理由を考える。「死」という当たり前の常識が否定された世界では、普段は当たり前に受け取っているあらゆる常識や制度、時間、言葉の意味と重さ、その文脈など、すべての意味合いが変容するからだと私は思う。死という常識のネジを一本ひねる。それによって物事の本質に鈍感になった我々が覚醒させられる。するとわかりやすい問題に取り組んでいる陰で、山積みになってしまったすぐに解決すべき本質的問題に向き合わざるを得なくなる。そういった「場」と「新しい人間」を作りたかったのではないか。“天命を反転させる(Reversible Destiny)”という彼の言葉はその仲間を作る合言葉だったのではないかと思う。

建築界や美術界から批判され、困惑され、時にクレイジーだと嘲笑されながらも、堂々と暴れる荒川が向かい合ったのは、我々が目を背けている「不条理の根っこ」と対になった「人の本質」だったのだろう。理想を常に現実のものとして具体的に追求する彼の思想は、既存の美術界や建築界の枠組みの中では表現しきれなかったかもしれないが、この世界には「荒川修作」自身が表現されていた。

夏の終わり、私がファッションをやっているという話を彼にしたときのことを思い出す。彼は眼を輝かせてこう言った。「ファッション!? それはいい。僕はね、障害者のための服を作ろうと思ってたんだぞ。いいかね、君。腕がない人のための凄い服を作るんだ。するとどうなる……? 腕がある人がその服を見たら、みんな俺も腕がなくなりたいと言い出すんだぞ!」。

それから数年が経ち、幸運にも彼のパートナーであるマドリン・ギンズとニューヨークのプロジェクトで仕事をする機会に恵まれた。その彼女にも今はもう会えなくなってしまったのが寂しい。ふと何かこれはということを思い付くと、今も荒川修作に話してみたいと思うときがある。

「オォルラィ (ALL RIGHT)」
「それはいい。今すぐに、もの凄い勢いでやれ! もの凄い勢いでやらなくちゃいけないんだぞ!」

今も時々、そんな荒川の声が何処かから聞こえる。


SHUSAKU ARAKAWA 1

ARAKAWA WITH MARCEL DUCHAMP
COURTESY OF ABRF, INC (ARAKAWA + GINS TOKYO OFFICE)


SHUSAKU ARAKAWA 2

SHUSAKU ARAKAWA
COURTESY OF ABRF, INC (ARAKAWA + GINS TOKYO OFFICE)


SHUSAKU ARAKAWA 3

MADELINE GINS
COURTESY OF ABRF, INC (ARAKAWA + GINS TOKYO OFFICE)


SHUSAKU ARAKAWA 4

『REVERSIBLE DESTINY LOFTS MITAKA ̶IN MEMORY OF HELEN KELLER-』(2005)
BY SHUSAKU ARAKAWA + MADELINE GINS COURTESY OF ABRF, INC (ARAKAWA + GINS TOKYO OFFICE)


REVERSIBLE DESTINY FOUNDATION
ARAKAWA+MADELINE GINS — TOKYO OFFICE
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小石祐介
プランナー。KLEINSTEIN代表。2014年、様々な企画を実現するためのプラットフォーム、NOAVENUEを設立。コム デ ギャルソン在籍時の2013年、荒川修作+マドリン・ギンズ事務所とのニューヨークでのプロジェクトに携わる。

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