大学を卒業して初めての春、恩人が借りていた荒川修作の建築作品『三鷹天命反転住宅 –In Memory of Helen Keller–』の一室に、私は縁あって友人とともに一年間居候することになった。そこは仕切りがない竪穴式住居のような部屋で、蔵書は凸凹した床に積み重ね、天井に物を吊るし、必要最小限の物だけで生活をするきっかけになった。俗に言う「キャリア」を積むことを奨励する世相の中、都心から離れた街でただぼんやりと内省的に過ごすことには肩身の狭さを感じそうなものだったが、この家に居るとまるで穴蔵に住む動物のように平穏な気持ちで時間を過ごすことができた。壁の内外が複数の色に塗られたカラフルな建物の敷地内に入ると、外界から秘密基地に帰ってきたような安心感をいつも感じた。
1961年、荒川は10数ドルのわずかな資金と瀧口修造の紹介で知ったマルセル・デュシャンの電話番号を握りしめ、マンハッタンへ旅立った。デュシャンにひどく気に入られた荒川は、アンディ・ウォーホルやジョン・ケージなどアメリカを代表するアーティストやギャラリーと知己を得て、数年の内に異国の地でアーティストとしての立ち位置を確実なものとした。パートナーのマドリン・ギンズと出会ってからは、ともに人の意識や認識の背後にある構造を考察し始め、1970年にヴェネツィア・ビエンナーレで『The Mechanism of Meaning(意味のメカニズム)』 という連作を発表する。デュシャンの『大ガラス』を一瞬彷彿とさせるこの連作は、平面作品として評価されただけでなく、そこに描かれた内容が意識についての本質的問題を主題としていたため、ドイツの物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクをはじめ、科学者や哲学者などの他領域の人々にも激賞を受け、彼は世界的に広く知られるようになる。この『意味のメカニズム』によって、彼は絵画へ引導を渡し、以後は人間の身体と経験に焦点を当てた作品や建築へと活動をシフトしていった。
荒川修作がニューヨークに降り立った1961年。ナチス親衛隊のアドルフ・アイヒマンの裁判がエルサレムで行われた。ユダヤ人のみならず、ロマ人、障害者や同性愛者などの社会的マイノリティを含む数百万人以上の犠牲者を出したホロコースト。これに積極的に関わったアイヒマンは周囲が想像していた極悪人のイメージとはかけ離れた頭の禿げた平凡な男だった。人の命を記号として扱っていたアイヒマンは「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」と話し、「私は命令に従っただけ」と役人的に自らの無罪を終始主張し続けた。裁判を傍聴していたハンナ・アーレントは一連の様子を『Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil(イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告)』に記し、その悪の起源への問い掛けは多くの議論を呼び起こした。
ARAKAWA WITH MARCEL DUCHAMP
COURTESY OF ABRF, INC (ARAKAWA + GINS TOKYO OFFICE)
SHUSAKU ARAKAWA
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MADELINE GINS
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『REVERSIBLE DESTINY LOFTS MITAKA ̶IN MEMORY OF HELEN KELLER-』(2005)
BY SHUSAKU ARAKAWA + MADELINE GINS COURTESY OF ABRF, INC (ARAKAWA + GINS TOKYO OFFICE)