UNOBITUARIES OF HEROES / MASAHIKO AOKI

いつかどこかで。ヒーローたちの足跡。/青木昌彦 5/5
ISSUE 2
TEXT YUSUKE NARITA
「ファッション誌『FREE MAGAZINE』で『青木昌彦(1938~2015)』について書いてみろ」。何も考えず勢いで引き受けてしまったあと、二つの固有名詞の隠された意外な関係について考えてみた。が、これといって何の関係も見当たらない。「颯爽となびく(ように感じるだけで実際は全くなびいていない)見事な白髪の前では服はチョイ役にしかならない」という命題を青木昌彦が証明しているように思えるくらいだ。とはいえ、関係ないことをしゃべっていけないわけではないはずなので、思い浮かんだ青木昌彦についての断片をとりとめもなく並べてみよう。

青木昌彦? ウィキペディアの「青木昌彦」の項を見てみると、ちょっとした歴史上の人物並みの情報量で面食らう。彼は「経済学者」で、半世紀以上前に「姫岡玲治」として「民主主義的言辞による資本主義への忠勤-国家独占資本主義段階における改良主義批判」というセピア色な扇動文を書いて羽田空港で暴れ、巣鴨刑務所に入った。その後渡ったカリフォルニアの空の下、「矢部波人」として「アメリカ文化革命におけるロック」を書き、そして青木昌彦として『ラディカル・エコノミックス』から『比較制度分析に向けて』に至った。「哲学者たちは、世界を様々に解釈してきただけである。肝心なのは、それを変革することである」とマルクスは言った。この「経済学者」青木昌彦は、むしろ変革(革命)から出発して解釈(分析)に遡ったようにも見える。

だがそう単純ではない。青木昌彦からにじみ出るのは、分析から革命への脱皮を迫る扇動ではないが、かといって革命から卒業して分析に至る成熟でもなく、分析と革命とを両輪にして走るジグザグした軌跡だからだ。

新聞や学界に現れる職業経済学者としての青木昌彦は確かにコインの一面だが、どんなコインにも裏面がある。彼の裏面に見え隠れするのは、荒川修作、オノ・ヨーコ、柄谷行人、篠原有司男、高橋悠治といった特異なキャラを一気に産み落とした、焼け野原の仁義なき戦いを絵本代わりにして育った戦中世代の革命根性だと僕は勝手に感じている。彼らに共通するものを無理やり括り出してみると、人類や闘争(または生命)について工房や書斎で思考し創作する無力な想像者でありながら、同時に他人種、異文化と大してしゃべれもしない外国語で交わり、社会運動のようなものを立ち上げていく活動家でもあるというちょっと奇妙な分裂的共存であり、その原因または結果としての、自身をレオナルド・ダ・ヴィンチやイマヌエル・カントのライバルと見なす自己陶酔、またはその抑圧としての文化(=自己)相対主義に貫かれた極端な性格である。驚くべき腰の低さで知られた自己相対主義者、青木昌彦の場合、革命と分析の分裂的共存は現れては消えていく「知的ベンチャー」と「ひきこもり」(彼の自伝『人生越境ゲーム―私の履歴書』に詳しい)の間の振り子運動としてはっきり自覚されていた。

上に挙げた特異なキャラたちが制度と正面から抗う死なないための建築、世界平和、闘争のエチカとしての批評、粗大ごみとしてのアート、たたかう音楽といったものに進んで革命色を強めていったのに対し、青木昌彦は逆方向に舵を取り、我々が生きる世界とその変化を与えられた現象として受け入れ、理解しようとする歴史家、理学者的姿勢を深めていった。継続された「知的ベンチャー」としての革命すらその理解のための栄養分かインターフェイスに見えてくるほどに。実際、彼の終着点かつライフワークは比較制度「分析」。あるときある場所である集団に包まれた人々がそこに固有のしがらみや文化(のように見えるもの)に縛られ、外から見ると意味不明ながんばりや保身に奔走するのはなぜなのか? なんでこんなに無数の「しがらみたち」や「文化たち」が消えたり一つに溶け合ったりすることなく共存しているのか? そういった有象無象の「制度」についての疑問を分析する試み、とだけとりあえず定義してみたい。彼が作ろうとしたのは、圧倒的に多様でよくわからないこの世界を、そこに引かれた制度と、制度の境界線をヒントに読み解こうとする社会科学だ。社会に散らばる無数の境界線の標本採集は、国家(税と規制)から始まり、企業、会社を経て文化へと進み、僕たちの肌身へと近付いていった。

そんな青木さんが先月(2015年7月)亡くなった。ほんの数ヵ月前から始まったらしい“片肺飛行”のまま飛んでいってしまった。白髪ばかりか、去り際までこんなに颯爽としていいものかと勝手に何かに苛立った。人の死は人を後悔させ、人が死んでいくばかりの少子化社会では後悔がどんどんと深まるばかりで、真っ暗な井戸の奥底に沈み込んでいく一方な気がしてくる。だから井戸の奥底を直接描写しようとする村上春樹が先進国向け世界文学になるのだと思うが、そんなさらに関係ないことには首を突っ込まず、死については信じず語らず後悔しないのだと強がってみたい。

思い出。青木さんが主宰するとある仮想研究所の合宿という名目で箱根の温泉宿に出掛けたことがあった(その仮想研の立ち上げの頃に六本木の隠れ家めいた中華で青木さんと知り合った僕は、エビとアスパラを食べた以外には世間話と相づちしかしなかったくせに仮想研の居候にさせてもらったのだった。何かのきっかけというのはだいたい凡庸で退屈なものである)。いつもただならぬフェロモンを放つ銀白の白髪老人、青木さん。今でこそ日本発グローバルスタートアップの創業者として高級スーツで雑誌に登場したりしているが、当時は若き日のスティーブ・ジョブズを真似し損ねたのか麻原彰晃のような髪とヒゲに包まれていたSさん、そして妊娠中の麗しの青木秘書Iさん、その他が並んだ光景は「身を隠すのが極度に苦手な不戦敗確実の革命家集団」ここにありといった出で立ち。これが青木さんの革命精神の物象化かと、ひとりで笑いをこらえていた。そんな奇妙な集団でなぜかみんな仲良くソフトクリームを食べた暖かい5月のその日、青空の下をくぐって小さなトンネルを車で抜けると突然雪が降ってきた。最初で最後の実写版「春の雪国」だった。

「いちばん古いともだち青木昌彦が亡くなった 音楽や経済学以前にシュールレアリスムや詩について毎日話し合っていた中学生の頃 革命や制度の相対化にいたる考えはちがっても 気が合っていた」と高橋悠治はつぶやいている。すでにある制度を常に中心に置き、その統一理論を模索する青木昌彦にとって制度は光源であって、彼は制度の絶対主義者だった。と同時に、「比較」制度分析であることからわかるように、原点にあるのは複数の異質な制度が溶け合うことなく立ち並ぶ光景の不思議さであって、そこには制度の相対化への含みもあった。とはいえ、その相対化は目の前に存在する複数性と多元性が保証してくれる静的で記述的な相対化であって、制度を揺るがし相対化していく力がどこから来るのか? その問いに対する答えや行動は比較制度分析の中にはほとんどない、ように見える。そして私たちの日常を支配する自意識や世間体、美意識といったものの姿もそこには見えない。体系化された比較制度分析からは抜け落ちたそれらが見え隠れするのは、むしろ青木昌彦自身の立ち振る舞いの中だった。

大多数の人間は二種類に分類できる。1、包み隠すことなく単に権威と常識が大好きな素直タイプ。2、権威と常識に抗うそぶりを見せつつも、実はどうにか権威、常識にすり寄りたいだけというのが大事な場面であっさり露呈する残念タイプ。青木昌彦はどちらでもない第三の稀少種だった。一見すると、ほのかな権威主義を身に纏った「スタンフォードでは」がちょっとした口癖で(彼は有名なスタンフォード大学の先生だった)、「やっぱり生き物は大切にした方がいいと思うんですよ」といっただいぶ普通なことをおっしゃられる。いかにも新聞に出てきそうな現生の偉い大先生だ。だが、話が深まってくるとカウンターカルチャー精神が染み出して、変なもの、弱いものに惹き付けられ目を輝かせる不思議の国のアリスになっていく。この大先生とアリスの不思議な共存が僕から見た青木さんの一番の凄みだった。この二重性が、お堅い役所や財団からの支えを受けて場を立ち上げ、時間が経つにつれ支援者たちの期待と全く違うわけのわからない旅人酒場のような混沌へとその場が変化していく、楽しい現場を作り出したのだと思う。現生でどうにか偉そうにすべくがんばっている先生候補たちか、アリスを気取って実は先生になり損ねただけのハンプティ・ダンプティだらけに見えてしまうこの世界は、革命家と分析者、大先生とアリスといくつもの方向に引き裂かれて万華鏡のようだった青木昌彦を失って、少しだけ、しかし確実につまらなくなった気がする。


MASAHIKO AOKI 1

『ラディカル・エコノミックス―ヒエラルキーの経済学』(1973)
1968年革命の興奮から生まれた運動「ラディカル・エコノミックス」との対話。統合社会科学に向けた青木昌彦の最初の一歩だった。

©中央公論社


MASAHIKO AOKI 2

『Toward a Comparative Institutional Analysis』(2001)

ラディカル・エコノミックスから約30年後、社会科学統合の試みは一見穏やかでラディカルの逆を行く『比較制度分析に向けて』に結実する。

©THE MIT PRESS


MASAHIKO AOKI 3

STANFORD UNIVERSITY
その30年間はスタンフォードと京都の間で過ぎた。スタンフォードの奇跡的な青い地平線。
©KING OF HEARTS - WIKICOMMONS


MASAHIKO AOKI 4

PHILOSPHER’S WALK IN KYOTO
夏は蛍が現れる、青木昌彦がよく歩いた京都の”哲学の道”。
©MOJA - WIKICOMMONS


成田悠輔
社会科学の研究者。2011年まで東京で仮想制度研究所VCASI(主宰・青木昌彦)の企画、運営。その後、夏は35度、冬はマイナス20度になる米国東海岸の田舎町で公立教育と日本食のグローバル食材化について研究。