SHOICHI AOKI 1/2

FREEーSTREET
ISSUE 8
INTERVIEW TEXT SHINGO ISOYAMA

世界の路上から。

『TUNE』を最初に読んだのは高校生の時で、それ以来約10年に渡り、この雑誌を繰り返し読んでいる。当時を知る多くのファッション関係者と同様に、僕にとっても印象深いスナップが幾つかあり、折に触れては彼らとその話で盛り上がった。多くのブランド名は、そこに写っていた人々を通じて覚え、一度も通ったことのない路地もまた、そこに写る人物の背景から想像した。フォローもフォロワーも今ほどは可視化されていない時代で、所属の分からない人々も沢山写っていたが、時としてそんな彼らから開放感が運ばれて来ることもあった。

その後、『FRUITS』『STREET』と出版順から遡るように読み始めることになるのだが、歳を重ねる度に人と都市の結び付きを考えさせられた。「環境が人を作り、人が環境を作る」。さも当たり前のように聞こえるこの循環は、各都市の至る所で起きている。また、そこから生まれた無数の文脈は、あらゆる方向に錯綜している。都市が持つ質感とは、その文脈の軌跡でもあるのだ。今この瞬間を生きるキッズ達は、都市の路上に沈殿する文脈に耳を澄まし、束ねることで自らを更新している印象だ。まるで、ある時期を過ぎた大人達が聞き取れないモスキート音のようなものと軽やかに戯れているかのようでもある。

少し前、個人的に青木さんとお会いした際に「新しい企画を考えているんです」という話を耳にした。今回のインタビューでは、『STREET』『FRUITS』『TUNE』と続く道程の中に置かれるであろうその企画についてお聞きすると同時に、過去から現在にかけて青木さん自身が捉えて来た事象についてじっくりとお話しを伺った。


初期の『STREET』は盗撮のようなニュアンスがありますね(笑)。

そうですね(笑)。最初の頃は勝手に撮っていましたね。出版が日本なので分からないだろうって。当時、街中でファッションスナップをしている奴って僕しかいなかったですし。最近になってビル・カニンガムがニューヨークで昔から撮っていたことを知りましたが、当時はニューヨークなんて怖くて行けなかったんで(笑)。ドキュメンタリー映画で観るまでビルがニューヨークの街中で撮っていることを知らなかったんです。パリコレの会場ではいつも顔を合わせていたんですが。


現地で出版していたら、被写体からクレームが来ていたかもしれないと。

結構バレていましたけどね(笑)。でも、クレームが来たことは今まで一度も無いです。後々、犯罪者になっている奴が写っていたりしたらしいですが……。まぁ、知ったこっちゃないんですけどね(笑)。フリーマーケットのオジさんが『STREET』に載ったことがあるって自慢してたっていう話が入って来たりもしましたね。


当時の撮り方には、クレーム対策以外にも何か青木さんの意図を感じますが。

そうですね。自分が感動した瞬間を切り取ってドキュメントとして伝えたい、というコンセプトがありました。声を掛けちゃうと、作られた写真になっちゃうじゃないですか。なので出来るだけ勝手に撮ってました(笑)。


確かにドキュメント的ですね。人が写っていない街の景観というのも、後に出版される『TUNE』や『FRUITS』と大きく異なるポイントですね。本の中にも「日本に入って来るロンドンの情報は、失業など暗い経済の情報がほとんどだ。しかし実際に肌で感じるロンドンは、そういうスケールでは計れない何か別のスケールの存在を感じさせる」とか「ノースリーブの人と革ジャンの人が一緒に写っているところが、パリらしいなあと思います」というテキストが添えられていました。

そんなことを書いていましたか(笑)。今から約30年前は、簡単に海外に行ける状況でも無かったんですよ。なので、街の雰囲気も込みで読者に伝えたいと思っていました。例えば、ロンドンに着いて地下鉄から地上に出ると2階建てのバスとかオースチン社製のタクシーが走っていて、みたいな感動をね。今はどこでも情報が手に入るから想像出来ないと思いますけど。


時はパリやロンドンだけではなく、例えば7号目にはカイロ、8号目にはローマを特集されるなど、様々な都市に行かれていましたよね。

世界中のストリートファッションを記録したいというのが最初の野望だったんです。当時は、エジプトではなく、アフガニスタンとかトルコに行きたかったんですよ。面白そうなので。でも、ちょうど紛争が始まってしまい行けないということになって、エジプトに。


創刊号は発行元が京都になっていました。当時は、京都から様々な都市に行かれていたのでしょうか?

そうですね。そこは自宅です。生まれは東京なんですけど、10歳の時からかな、京都に。その後『STREET』を始めて一年後にまた東京に戻って来たんです。最初に自分で撮りにパリに行ったのは1986年くらい。創刊して一年後くらいですね。その翌年に初めてパリコレに行きました。その頃はYOHJI YAMAMOTOとCOMME DES GARÇONSとJEAN PAUL GAULTIERがトップ争いをしていた時期です。


1985年の創刊号はどなたが撮っていたのでしょうか?

現地で撮影をしてくれる人を探して頼みました。「こういうコンセプトでやりたいんだけど、写真撮ってくれる人いませんか?」って募集したんですよ。向こうの日本人新聞のようなものに(笑)。


そのコンセプトとは、どのようなものだったのでしょうか?

当時、日本でもDCブームが立ち上がり出した頃で、多くの人がお洒落に目覚め出してはいたのですが、自由なファッションというか、自分で自分のファッションを創るという発想はあまり無かったように思います。ブランドやファッション雑誌が提案する流行があって、それを上手く再現できた人がお洒落だった。『流行通信』『AN・AN』『OLIVE』とかが全盛の頃です。でも僕は、アパレル主導のファッションに対しては全く興味が無かったんですよ。ブランドとメディアが上にいて、ユーザーにファッションと流行を教える。ユーザーはその範囲内で上達を目指すみたいな。その範囲からはみ出すとダサいみたいな感じで。それに比べて、パリとロンドンの若い人のファッションは、発想そのものが違うなと思いました。ストリートの子達が自分自身のファッションを創り上げているな、という感覚があった。だから僕は、僕が思う本当のファッションを、街中の人々のファッション、着るという行為をドキュメントする価値があると思ったんです。


当時のパリやロンドンと、東京のストリートのキッズ達には乖離があったと……。その後『STREET』は東京も特集されていますよね。

よく見ていますね(笑)。海外で『STREET』を撮っている視点で東京を撮ってみたいなという気持ちがありました。ちょうど『FRUITS』が始まる2~3年前の話ですね。DCブームの頃は本当にもう、COMME DES GARÇONSかYOHJI YAMAMOTOだけ。もちろんお洒落なんですが、同じ格好なので面白くなかった。でもそれが十数年経って、ようやく下火になり、「次の流行は何だろう」ってファッション関係者達が言っていた時期です。しばらくしてDCブームのカウンターとして新しい動きが出初めて、CHRISTOPHER NEMETHとかVIVIENNE WESTWOODとかに若い子達が注目し始めた。後はTRAI VENTIとかBEAUTY:BEASTが出て来たり。街には若い子達の新しいファッションを求めるエネルギーが溢れ出していましたね。ちょうどMARTIN MARGIELAがデビューくらいの頃で、パリでも次世代のファッションが動き出していた頃なんですよね。XULY BETとかHELMUT LANGとかも面白かったですね。ある意味、同時代的にファッションにおけるパンドラの箱が開かれたという感覚です。


パリとは別の仕方で東京のファッションが動き出したわけですね。

そうですね。突然変異的に出てきた子達がいました。『FRUITS』を始めようとしたキッカケは、『STREET』に載っていたこの写真(P137)なんですど、変なものを合わせてるじゃないですか。当時は、黄色い髪の毛というのも見たことが無かった。しかも、スニーカーの色を黄色で合わせちゃったり。こっちの子は、羽織と雪駄で中はジャージ。当時はこんな格好が出来る時代じゃないんですよ。途中から全然平気な時代になったけど、最初に見た時、これよくやるなって思いました(笑)。直前までDCブームですからね。この流れは東京でしかありえないです。その頃、影響力のある子達が5人くらいいました。ファッションはここまで、っていう感覚をその子達がドンドン外していったみたいな感じです。JEAN PAUL GAULTIERが変えていった提案の仕方を、ストリートでやっていたような感じですかね。DCブームの後の停滞期で、熱量みたいなものが溜まっていたので、あっという間に新しいムーヴメントになった。その最初の変化を感じて、これはスゴイことになると思って、大急ぎで撮影を始めて、約半年後には『FRUITS』を創刊しました。街の主役はそういう子達に代わって行きましたね。


ある意味、『STREET』で街角のリアルな情報を東京の若い人々に蒔いて、『FRUITS』でその種が花開いたという流れというか……。

そうなんですよ。『FRUITS』というタイトルにはそういう裏テーマがありました。『STREET』で蒔いた種が育って、実を収穫するという意味で。なので、当初は『FLOWER』とかっていうタイトルも候補でした。


その後のシーンを作る方々も撮られていますね。例えば、初期の『STREET』に(クリストファー・)ネメスさんの姿がありました。

いやぁ、カッコ良かったですよね。でも、僕は知らないで勝手に撮ってたので、後々「あ、ネメスだったんだ」って気付きました。でも、彼は知っていたみたいです。撮られたことも載ってたことも。喜んでくれていました。当時、彼はまだロンドンで活動していたのかな。そのうち彼は原宿でお店を始めて。多分『STREET』を始めた直後くらいですね。えらく入りにくいお店でしたね(笑)。カッコ良すぎて怖い、みたいな。


デザイナーとストリートの方々の関係はどのように感じていましたか? ランウェイ・ファッションとストリート・ファッションの関係といいますか。以前お会いした時、青木さんは「デザイナーとストリートの共犯関係」という言葉を使っていたと思うのですが。

ユーザーとの共犯関係が成立しているブランドが幾つかあって。VIVIENNE WESTWOOD、JEAN PAUL GAULTIER、MAISON MARTIN MARGIELAとか。特にJEAN PAUL GAULTIERの時は凄かったですね。物凄い時期が2~3年あったと思います。ショーに集まっている人達は、ゴルチエの服を着て来るということでもなく、自分のファッションを表現できる人達で、今でいうコミュニティみたいな雰囲気がありました。こいつら一体どこからやって来たんだろう、みたいな(笑)。ゴルチエは、ある種のスイッチや、ファッションはここまでだよっていう認識のリミッターをガーンと取ってくれた人ですね。その後は何といってもMARTIN MARGIELA。こっちはまたちょっと違う感じの熱狂でしたね。クチュール系メゾンのファッションの力がまだ強かったパリコレで、カウンター的ファッションなんだけど、ゴルチエや川久保さんともまた違った提案でした。当時は、新しいブランドをやろうと思えば、どうしてもCOMME DES GARÇONSのような雰囲気になっていったと思うんですけど、そこに対して全く新しい提案を仕掛けるというのは、誰も考えられなかったんじゃないかな。熱狂的なファンが集まるスピードも早かったです。


当時、MARTIN MARGIELAのショーを直接観ている方は、かなり珍しいのではないでしょうか。

そうですね。僕も平川武治さんに教えてもらって初めて知ったので。マルタンの最初のショーの翌日に、パリコレ会場で「青木くん、昨日のマルタン観た?」って。観ているはずもないのに意地悪で聞いてくるんですよ(笑)。最初のショーに行っていた日本人は数人しかいなかったはずです。行っていないと答えると「良かったよ、次から行った方が良いよ」って。それで2回目のショーから行きました。当時、日本人のカメラマンもほとんど誰も行ってなかったと思うな。2回目のショーは廃墟みたいな場所で、黒人の子供達が入って来て一緒に出てる、みたいなショーでした。平川さんは「実は、COMME DES GARÇONSのファーストコレクションを観れてなくてずっと悔しかったんだよ。でもMARTIN MARGIELAのファーストコレクションは観れたからこれで良い」って言ってましたね(笑)。


その後、青木さんはMAISON MARTIN MARGIELAの本を作ることになります。どのような経緯があったのでしょうか。

2~3回目のショーからはもう、パリコレの主役はマルタンだったんですよ。ジャーナリストの興味はもうそこにしかないみたいな感じだった。でも、日本だと服を買おうと思っても、UNITED ARROWSとTHE GINZAに1ラックあるだけみたいな。どんなコーディネートをしたら良いのかも分からないという状況。さらに、マルタンの友人のフォトグラファー達が撮った写真のイメージや、洋服以外のクリエーションも物凄く革新的だったので、色んなジャンルにパクリまくる奴らがいっぱいいたんですよ。そういう奴らが有名になりつつあるという状況に頭に来て、本家本元をストリートの子達に知らせる為に一冊作ろうと思ったんです。「別冊で一冊作りたいんだけど」という提案を、パリの知り合いを通じて直接マルタンに連絡してもらったんです。2シーズン目以降のショーはほとんど撮影していたので、幾つか抜けているシーズンの写真を貸して下さいというお願いだったんだけど。そしたら、その知り合いから「『いいよ』って言ってるけど、マルタンが自分で作りたいって言い出してるんだけど、どうする?」って(笑)。マルタンは、フルページと四分割のページしかない当時の『STREET』のレイアウトを気に入ってくれて、そのレイアウトで作りたいって言ってくれたんです。なので、あの本の編集は全部マルタン本人がやってるんですよ。


彼本人がレイアウトされていたのですね。当時の制作環境一つとっても、大変な過程だったかと思うのですが。

そうですよね。当時の連絡はファックスだったかな。電話もしてたかもね。全ページ分の写真とレイアウト指示の紙をまとめて、黒いリボンを結んで封をした「作品かな!?」って思うくらいカッコ良いパッケージングで送って来てくれた。今考えるとよく会ったこともない日本人に送って来てくれたなと思うんですけどね。中身の構成は、一見シンプルなんだけど、結構複雑だったんですよ。これを版下にするのは大変だなと思って、ちょうどデジタル編集が始まりかけていた時期だったので、事務所でフラットべッドのスキャナーで写真をスキャンして、画像をフォトショップで加工して。でも、めちゃくちゃ遅い。一点あたり20~30MBのファイルをハードディスクに保存するだけで20~30分はかかる。なので保存ボタンを押してから事務所を出る、みたいなね。でも、結構色とか質感は上手く表現出来て、良い感じになりましたね。校正を持って行くって言って、カラープリントしたものをパリに持って行ったんですよ。パトリックっていうPR担当が、凄く不安そうだったんだけど、「オッケー出た、マルタン喜んでたよ!」ってホッとした顔で出て来た。一発OK。何の修正も無し。そこもマルタンらしいです。


最近またパリで撮られていますよね。当時と比べて、今現在感じていることを教えて下さい。

パリは20年振りなんですけど。死ぬほど寒かったな、今回(笑)。実際行くと、これからどう変化して行くかっていう兆しみたいなものが目に入る気がして。VETEMENTS以降、何か動いてる感があると感じています。以前は、メインのコレクションはルーブルのメイン会場でやっていたじゃないですか。でも最近はメイン会場がなくて、色んな場所でショーが開かれるので、場所一つ調べるにしても大変で。『STREET』を始めた頃に比べると、パリの街っていう意味では、ここがお洒落だよねと言える所は少なくなっちゃった気がします。レアール地区もフィーチャーしたことがあるのですが、当時めちゃくちゃお洒落だったんですよ。フィリップ・スタルクがデザインしたカフェ・コストがあって、ポンピドゥー・センターとの間の地区が広場みたいな感じで。でも、お洒落な若い子達が集まるっていう状態はそんなに長く続かなかったですね。5年くらいなのかな。パリの人はもっと深いものが好きですもんね。たぶん認識的にも哲学的にも深いものの方が。その時はワーッと沸いても、結局薄っぺらいよね、みたいな感じで捨てちゃったような気がします。


当時は「青木待ち」という言葉が生まれたり、青木さんを名乗る偽物が各地にいたと聞いています。ご本人としては、どのようなモチベーションで動いていたのでしょうか。

『FRUITS』の時ですよね。僕は昆虫採集の気分。珍しい蝶を山に探しに行ってるような感じです(笑)。なので、モンシロチョウとかアゲハチョウばかり獲ってる人の意味が分からないし、蝶に似せた蛾みたいなのもいっぱい出てくるので、そればかり撮るのも分からない。なので『FRUITS』では、正面からちゃんと標本として撮って、ラベルを付けた。「青木待ち」というのは当時は知らなかったんです。増田セバスチャンからその後に聞いて。僕の周りに人が集まっちゃったり、撮って欲しいって言われるのとかは困るので、歩き回りながら撮ってたんですが。当時、ラフォーレ前とGAP前の存在が大きかったですね。昔はストリートスナップという概念が無かったので、ラフォーレの入り口で撮っていても何も言われなかったんですけど。スナップするカメラマンが凄く増えてきたタイミングで、ラフォーレ前では撮影NGになってしまって。今はある意味、全人類がフォトグラファーなんで、何も言わないかもしれないですけどね。GAP前では、オープンに対応してくれました。


青木さんはストリートスナップをするカメラマンのことをハンターと呼んでいますね。スタッフに共有しているルールはありますか?

「自分が思うお洒落な子を撮ってきて」っていうのが基本です。後はフォトグラファーとしての欲望は出すなよ、って伝えていましたね。そんな欲望はちっぽけなものなので出すな、って。いかに正確に被写体を読者に伝えられるかというところが手腕になるはずなので。背景をボカしたりするのも好きじゃない。被写体がポーズを取らないっていうのは、撮られる子達の間に自然に作られていった暗黙のルールなんですよ。僕がそういう雰囲気を出していたのかもしれないですけど。それに何より大事なのは、新しいファッションが生まれる兆しを見極めるということ。そういうのって、最初の見え方は完成度が低く、ダサく見える可能性がある。でも、そこを捉えなきゃいけないよ、って。中々出来ないですけど。誰が見てもお洒落な子を撮ることは、誰にだって出来ることなので。


最近では被写体と共にコンテンツを作る、ある意味作為的なスナップも増えていますね。青木さんが仰っている昆虫採取的な、ありのままを切り取るというヴィジョンとは正反対かと思うのですが。

たい焼きに天然と養殖があるの知ってます? ストリートスナップにもあるということですね。『STREET』を始めた頃、広告代理店からの提案は、「商品を持たせられないか」とか「洋服を着せて撮れないか」とか、そういう話ばかりでした。ドキュメンタリーなので、勿論お断りしましたが。特にインターネット以降のスナップの人は、アスセス数と利益が目的なので、そういうことに抵抗が無いようですね。養殖の方が儲かるということです。僕の場合、ポーズをリクエストすることすら養殖に入りますから。天然でないとドキュメンタリーとしてやってる意味がないので。


撮った写真は、どのくらいの割合で掲載していたのでしょうか?

実は撮った写真はほとんど使ってるんですよ。『STREET』も『FRUITS』も『TUNE』も。そもそも、そんなに撮っていないですしね。撮る時点でセレクトしているので。「もっと撮ってきてよ、撮ってきたら違う面も見れるかもしれないから」とはスタッフに言ってたんですけど、中々撮ってきてくれなかったので。だから結構コストが掛かってましたよね。そういう意味でも良い時代だったんですよ。今では考えられないですね。




























PHOTOGRAPHY KOHEI IIZUKA
WRITTENAFTERWARDSのデザイナー山縣良和が所有する『MAISON MARTIN MARGIELA STREET SPECIAL EDITION VOLUMES 1&2』。