LUTZ

自由な時代のためのファッション。
PHOTOGRAPHY GIASCO BERTOLI
INTERVIEW TEXT NAOKI KOTAKA
ルッツ・ヒュエルは90年代という時代に愛されたデザイナーだ。90年代の最も先鋭的なファッションの現場には、彼の姿が必ずあった。セントラル・セント・マーチンズに学び、在学中からマルタン・マルジェラで働き始め、後に彼のアシスタントを務めるまでに至る。卒業コレクションが『PURPLE』の創刊号の表紙を飾り、ヴォルフガング・ティルマンスとは同郷の友人で、彼の写真作品にも被写体として頻繁に登場していた。

ヒュエルや同世代の友人達にとって、90年代は素晴らしい時代だった。時代の空気感が変わり、「あらゆる表現が許される」、そう感じられた。当時のランウェイで表現されていた”美し過ぎる”女性像は、ヒュエルの生きている現実とはかけ離れたものだった。彼にとってのファッションとは、“普通の”女性を美しく見せるもの、つまりは自分の周りの女性達の現実に即したものである必要があったのだ。過去や、他人のためではなく、時代の当事者である自分達の表現や思想を伝えるためのツールとしてファッションが存在していたのである。幸運なことに、時代は新しい表現を心待ちにしていた。ヒュエルは時代に愛され、90年代を象徴する存在として歴史に名が刻まれた。その後、ミレニアムも最初の五年が過ぎ、時代の空気感はもう変わり始めていた。夢のような時間は永遠には続かなかったのである。ほどなくして、ファッションの表舞台から彼の姿は消えた。

2014年5月27日、ヒュエルの表現が時代の流れと再び交わり始めた。INSTAGRAMに初めて投稿したのである。彼のコレクションを着た、オルタナティヴミュージックのアイコン、ピーチズの写真だった。その後も、彼は過去のコレクションの写真を投稿し続けた。次第に、ジャーナリストやスタイリスト、そして90年代の彼の活躍を知らない若い世代も、彼のアーカイヴの文化的価値に興味を示すようになったのである。多くの雑誌に再び取り上げられるようになり、『POP』の2016年秋冬号では、しばらく振りの表紙を飾った。ヒュエルは、10年代になって再び時代に愛されるデザイナーになったのである。インターネットの登場により、デザイナー達はメインストリームの雑誌を介さないでも、オーディエンスに直接リーチ出来るようになったのだ。ブランドが再評価された背景を、彼はそんなコミュニケーションの自由化と関連付けている。90年代に感じた自由な空気感が、今再び訪れているのだと。果たして私達は、90年代に見られたような、新しいファッションの幕開けに立ち会っているのか? ヒュエルのキャリアを総括しながら、現代という時代に対する彼の考察を聞いた。


ファッションデザイナーを志したきっかけを教えて下さい。

若い頃は、漠然とポピュラーカルチャーの世界に身を置きたいと考えていました。私が生まれ育ったレムシャイトというドイツ北西部の田舎町には、若者を熱狂させてくれるものが何も無かったのです。音楽や映画、ファッションなどのポピュラーカルチャーが唯一の楽しみでした。とにかく、両親のような人生は送りたくなかったんです。当時は、明確な将来設計などありませんでしたが、ロンドンに住みたいと強く思っていました。ロンドンには、有名ファッションデザイナーを多数輩出したセントラル・セント・マーチンズという学校があるらしい……。そんな噂を聞きつけて、その学校に行けば、デザイナーやアーティストなどのクリエイティヴな人達に出会えると思ったのです。同校に進学したのは、ファッションデザイナーを目指していたからではなく、ロンドンに住んで面白い人達と出会うための口実でした。当時、まだ有名になる前のシャーデーも通っていたぐらいですからね。ドイツの田舎町に住んでいる私にしたら、楽園のような場所に思えました。学校というよりも、クリエイティヴな人達の遊び場という印象でしたね。


そうしてロンドンに移住して“楽園”を見付けた…?

当時は、18歳になると二年間の兵役か社会奉仕に従事する義務があり、私は社会奉仕のためにハンブルクにまず移住しました。田舎で育った反動だったのでしょう。週に数日働く以外は、遊び呆けていました。景気も良く、手厚い社会保障の制度もあったので、そんな奔放な生き方が可能だった時代でした。ある時、ふと我に返って、将来について真剣に考えようと思いました。このままでは、ドラァグクイーンになってしまうと(笑)。こうして進学することを決意し、ロンドンに移住しました。そこでまずファンデーションコースという一年間の進学準備コースに通いました。アート、デザイン、メディアなど、表現の基礎を総合的に学んだ後で、私はファッションに特に興味を持ちました。幼い頃からファッションは好きでしたが、それは服自体や裁縫に興味があったからではありませんでした。ファッションというのは、抽象的な言語体系のようであり、服装は着る人の価値観の表れだと漠然と考えていました。何というか、服と着る人の相互関係に興味があったのです。そうして私はファンデーションコース修了後に、ファッションの学士過程に進学することを決めました。


在学中はマルタン・マルジェラでインターンをされてましたよね?

三年間の在学期間中は、学校の休みを利用して、マルジェラのパリのアトリエで働きました。主にコレクションのプレゼンテーションに関わる仕事を手伝いました。当時は、まだスタッフが5~6人程の小さな会社で、アトリエの雰囲気もアットホームでした。私は、三年間毎年インターンを続けたので、ある時、彼が「アトリエの一員にならないか?」と誘ってくれたんです。まだ学生でしたし、大学も卒業したかったので、一旦は断りました。すると「卒業したら連絡をくれないか? その時にまだ仕事があったら一緒に働いて欲しい」。そう言ってくれたのです。幸運にも、卒業したタイミングでまだ仕事があったので、私はすぐにパリに移住して、彼のアトリエで働き始めました。


マルジェラは約三年で辞められていますよね?

働き始めて三年が過ぎ、私はロンドンが恋しくなりました。90年代のロンドンの盛り上がりといったら、パリとは比になりませんでしたから。それで自分のブランドを始めるとか、尤もらしい理由も無いまま、私はマルジェラを辞めてロンドンに戻りました。たまたま、学生時代の恩師が教員を探していたので、私は母校でファッションを教えることになりました。私は教職に就きながら、今後の自分の人生について考えようと思ったのです。それで、卒業コレクションを引っ張り出してきました。当時は、服装の規定がどんどん意味を成さなくなっていることに関心を持っていました。家、仕事場、社交場と、シチュエーション別に着替えなどしない。それが普通に感じられました。生活スタイルが多様化するのを目の当たりにして、そうした変化をファッションにも反映するべきだと考えたのです。


セントラル・セント・マーチンズとマルジェラという、90年代で最も先鋭的なファッションの現場に立ち会ったことは、あなた自身のスタイルにも影響していますか?

マルジェラの最も有名なデザインの手法は、ヴィンテージアイテムの再構築ですが、私の場合は、シルエットやファブリック、スタイルなど、より広範な対象を再構築しようと試みていました。私がマルジェラで働いていたことは広く知られていたので、彼のデザインと混同されるのを避けるために、自分のデザインのアプローチに慎重になる必要があったんです。例えば、ファーストコレクションでヴィヴィッドカラーを使ったのは、彼へのアンチテーゼ的な意味合いがありました。というのも、彼はヴィヴィッドカラーが大嫌いで、色といえば、彩度の低い黒か茶、またはヴィンテージアイテムの色をそのまま使っていたからです。また、彼の代名詞であるデニムを使うことも控えました。それで、コレクションを見たジャーナリスト達も、理解に苦しんでいたようでした。当初は、私を「マルジェラ出身のデザイナー」の枠にはめたがっていたようです。実際のところ、私達のデザインの最大の違いは、マルジェラは「過去」を、そして私は「未来」をデザインの拠り所にしていた点にあります。私にとってのファッションとは、過去に起こったことではなく、今、目の前で起こっていることへのレスポンスだったのですから。


そもそもマルジェラでインターンしようと思ったの何故ですか?

それは、彼の女性像を明確に理解出来たからです。私の周りには、そういう女性達が大勢いましたし、彼のコレクションを見ると、友人達が着ている姿が目に浮かぶようでした。私には80年代から90年代前半にかけてのファッションが、誰のために作られているのか理解できなかったのです。あまりにも現実とかけ離れていたので、実際にそういう女性達が存在しているとも思えませんでした。その点、マルジェラの服は、モデル体型の女性だけでなく、普通の女性を美しく見せる服だったのです。私にとってのファッションも、自分自身や友人達の現実に即していたいと思いました。


アーティストのヴォルフガング・ティルマンスとは同郷のご友人だそうですが、あなたが被写体になっている彼の写真作品にも象徴されるように、80年代後半から90年代前半にかけて、アーティストやデザイナーが改めて現実に目を向け始めたように思えます。こうした傾向は、自然発生的に始まったことなのでしょうか?

時代の空気感が変わったというか、そうした表現の在り方が可能に思えたのです。突如、自分と同世代の友人達が持っている価値観を表現すべきだと強く感じました。私と友人のアレックスが裸で木に登っている『LUTZ AND ALEX SITTING IN THE TREES』(1992年)という、ヴォルフガングの作品が良い例です。あの作品には、作為的な意味も、綿密な計画性もありませんでした。当時のありのままの私達の姿を、ヴォルフガングが写真に収めたのです。「ありのまま」というのは、私達が野外で裸で生活していたという意味ではありません(笑)。何というか、あの写真が捉えた時代の空気感に偽りは無いという意味です。森の中で裸になって、メゾンブランドの高価な服を着せられて、そのうち雨も降ってきて、もう笑うしかないっていうような状況でした。けれど状況が馬鹿けていればいるほど、どんどん自由になれるような気がしました。興味深いのは、当時の空気感を最近また感じるようになったことです。自由な時代がまたやって来ているのかもしれませんね。


当時の状況と、2017年現在の状況が似ていると?

そうなんです。「あらゆる表現が許される」と感じました。新しい表現を誰もが心待ちにしていたのです。それは、とてつもない自由が手に入った感覚でした。当時の状況をファッション業界全体がどう捉えていたかは分かりませんが、私と友人達は、同様の感覚を共有してました。例えば、『PURPLE』のオリヴィエとエレンはとてもオープンで、私の卒業コレクションを創刊号の表紙に使ってくれました。何かを一緒に生み出すことを皆が求めていたのだと思います。ですから、感覚を共有する人達の輪も自然と広がっていきました。思うに、私達は過去に一切の関心が無かったのだと思います。それよりも、今目の前で起こっていること、そして当事者である自分達に関心がありました。当時は、全てのメインストリームのファッションが古臭く感じられたものです。美し過ぎるモデルも、過度にレタッチされた写真も、全てが完璧過ぎました。私達は、自分達がいかに優れているかを誇示することには関心がありませんでした。私達は、自分達の表現や思想について話をしたかっただけなのです。それはそれは素晴らしい時代でした。同時に、長く続かないことも予期していました。夢のような時間が永遠に続くはずがありませんから。ヴォルフガングと撮影したのが1992年で、セントラル・セント・マーチンズを1995年に卒業したので、もう十年余りの時間が経過していたのです。2000年にブランドを始めた頃には、時代の空気感はもう変わり始めていました。そして2005年を過ぎる頃には、私のブランドは忘れ去られようとしていました。


仰る通り、あなたはファッションの表舞台から一度は姿を消したように見えた。しかし、最近になって再び大きな注目を集めています。この状況をどう捉えていますか?

今の状況は素直に喜んでいます。けれど、コレクションを発表し続けること以外に、何か特別なことをしてきた訳ではありません。トレンドは常に変化しますから、自分のスタイルがトレンドと合っていないと感じる時期もありました。勿論、私自身も自分のスタイルに飽きますし、古臭いと思われたくもない。けれど、自分の表現の核となる部分に関しては確固として正直であろうとしました。「あなたは変わらないね」「スタイルを貫いてるね」。そんな風に声を掛けられると嬉しくなります。私はとてもラッキーだったんです。何故ならブランドが注目されていない時代も、店頭では服が売れ続けていたのですから。


素晴らしいことですね。それでは次にあなたのデザインのプロセスについて教えてもらえますか?

まず、過去3~4シーズンの全てのルック写真を壁に貼り出します。写真を貼ったり外したりしながら、「このアイテムは完璧」「このアイテムは丈を短くした方が良い」「このアイテムは新しいデザインを足す必要がある」といった具合に、コレクションの全体像をまず作っていきます。私のスタイルを評して、“変わらない”と言われるのは、恐らく、良いと思ったアイディアを数シーズンに渡って発展させるからです。中には、マイナーチェンジしながら5~6シーズン継続するアイテムもあります。勿論、全く新しいデザインが加わることもありますし、昔のアイテムをコレクションに戻すこともあります。例えば、2016-17年秋冬シーズンに発表したボンバージャケットは、ファーストコレクションで発表したジャケットをベースにしていました。こうして15年もコレクションを発表し続けていると、自分のスタイルを完璧にコントロール出来るようになります。熟練したアスリートのように、もはや感覚だけでゲームを楽しむことが出来るようになったのです。


ご自身のスタイルをマスターされた?

そうとも言えますね。おかしいのは、一方で、私はまだ何も成し遂げていないような気がしているんです。以前は、15年も続けたら伝えたいことも無くなるだろうと思っていました(笑)。しかし、やってもやってもアイディアは尽きないのです。ファッション業界では、最新のコレクションの出来によってデザイナーの評価が決まります。つまり、ファッションデザイナーが評価されるには、最高のコレクションを発表し続けるしかないのです。過去の成功にあぐらをかいて休んでいる暇など無いということですね。前進という選択肢しか無いことが、私がファッションを好きな理由かもしれません。


過去のコレクションピースもアーカイヴされているのですか?

過去のコレクションピースは、スタジオのロフトに詰め込んでありますよ(笑)。毎シーズン、コレクションの半分はアーカイヴするようにしています。最近、アーカイヴをINSTAGRAMに投稿するようになって、大勢のスタイリストから撮影用に貸して欲しいと連絡が来るようになりました。ブランドを始めた頃は、『STYLE.COM』や『VOGUE RUNWAY』が存在する前で、しかも『VOGUE』などのメインストリームの雑誌が、若いデザイナーを取り上げることは稀でした。『PURPLE』は頻繁に掲載してくれましたが、読者数は限られたものでした。つまり、私のブランドはほとんど認知されていなかったのです。ですから、今アーカイヴされているアイテムの多くは、雑誌に一度も掲載されたことの無いものばかりです。しかし、SNSの登場により、こうしたアイテムを再び見せる機会が生まれたのです。


あなたのブランドが再評価されたのも、INSTAGRAMのおかげだと……?

そうとも言えますよね(笑)。INSTAGRAMの投稿がブランドの再評価に繋がったことで、私がファッションに関するコミュニケーションの在り方の変化を切に実感しました。昔はファッションに関する情報を、メインストリームの雑誌の誌面からしか得ることが出来なかった。つまり、雑誌の編集者が選んだ情報しか手に入らなかったのです。しかし、今はインターネット上に存在するファッションに関する情報を、読者が好きに取捨選択して手に入れることが出来る。このコミュニケーションの自由こそが、ファッションを面白くしている理由だと思うんです。デザイナーにとっては、とても刺激的な時代ですよね。現代においてはメインストリームを経由することなく、オーディエンスに直接リーチ出来るようになったのですから。インターネットが登場する前、自分と似たような趣味趣向を持った人間が、果たしてこの世に存在しているのかを知る術はありませんでした。最近は、INSTAGRAMをチェックしていると、自分の価値観と共鳴するようなユーザーに多く出会うことがあります。過去には無かったツールを通して、新しい出会いが生まれているのは素晴らしいことだと思います。


あなたが言うように、現代は「自由」に溢れた時代なのでしょうか?

今、世界はとても不安定な状況にあると思います。けれども不安定であるということは、それこそが自由であることの表れなのです。私達は、今正に新しい秩序が構成されていくのを目撃しているのですから。英語で「IS THE GLASS HALF EMPTY OR HALF FULL?」という表現があります。グラスに水が半分注がれている状況を指して「半分も残ってる」と捉えるか、それとも「半分しか残っていない」と捉えるか。この表現が示す通り、自由であることは捉え方次第で、ポジティヴにも、ネガティヴにもなり得ます。ですから、私は、現代という時代もまた、素晴らしい時代になり得ると思うのです。この自由をどう捉えるかは、私達次第なのですから。


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