INTERVIEW WITH CHIKASHI SUZUKI

写真家、鈴木親の原点に迫る。 1/3
INTERVIEW TEXT RISA YAMAGUCHI
日本を代表するフォトグラファー、鈴木親。幸運なことに、私はこれまで幾度となく親さんと仕事をご一緒させて頂く機会に恵まれている。撮影現場ではムードメーカーとして私達を引っ張り、常に新しいアイディア、知識、価値観を共有してくれる先生のような存在だ。そして誰に対しても誠実に対応するその姿に感銘を受けたのは私だけではないだろう。「写真を撮る」という行為だけではなく、原石のような被写体を発掘し、親さんの魔法により一段と磨きがかかることで写真の中では別人のような表情を見せる。そんな光景を何度も目の当たりにしてきた。所謂インスタグラマーやファッションキッズと呼ばれる若者達は、突飛な外見やフォロワー数だけで判断され内面の成熟が伴っていないことも多いが、常に未来に目を向けてシャッターを切り続ける親さんだからこそ、独特の「人を見極める目」も備えているのではないだろうか。

インタビューが続く中で「良い編集者がカメラマンを育てるし、良いカメラマンが編集者を育てる」と仰っていた言葉が何故だか強く胸に響いた。現代は上下関係を気にし、お互いに気を使ったり、慣れ親しんだ関係性の人達としか関わらないため、現場で切磋琢磨してクリエイトしていく環境が少ないと感じるからではないだろうか。演者含め、各々意識を高めて何かを発信する立場にいる自覚があるのであれば責任を持って発言し、行動しなければならないと改めて強く考えさせられたのだ。

先日、親さんが撮影された90年代後半の『PURPLE』を手に取る機会があったのだが、数十年前の作品にも関わらず全く色褪せず、むしろ新鮮にさえ感じた。スタッフクレジットを見なくてもすぐに親さんの写真だと分かった。何十年も同じ手法で写真を撮り続けることはそう簡単なことではないはずなのに、一体その原動力、継続力は何処からくるのだろうか? そして彼の作品は何故全く古臭さを感じさせないのだろうか? ネットで「鈴木親」と検索すれば簡単なプロフィールやインタビュー記事も掲載されているが、今回は写真のことは勿論、親さんのパーソナルな部分にも迫ってみたいと思い、渋谷の喫茶店にて約三時間にも及ぶインタビューをさせてもらった。


どんな幼少期を過ごされましたか?

生まれた時に心臓に穴が開いていて、勝手に塞ぐか塞がないかの病気だったので一応プールと長距離が駄目でしたが、後は普通に体育とかは出来ていました。その話だけ聞くと文化系にいきそうですよね。でも運動神経が良くて体育が大好きでした。中学校に入ってから手術をしたのですが、手術後に急に運動が苦手になってしまって(笑)。小学校、中学校で運動神経が悪いと致命的じゃないですか。体は治ったのに運動神経が悪くなり、その前まではリレーの選手とかに選ばれていたので、普通にならざるを得ない状況が自分の中でかなりの挫折感がありました。その時から意識的に美術とかが好きになった気がします。絵は元々上手くて、美術の成績も良かったのですがそこまで興味が無かったんです。デッサンを描くのは上手なのですが、決定的に自分に掛けているのは、色を付けることに関しては大胆に色が塗れなくて普通だったんですよね。そのペースで高校に入学をして、部活にも入らず美術の大学に行こうかなとも思ったのですが、絵を描くというより現代美術に興味があったんです。当時ヨーゼフ・ボイスのインタビューを読んでいて、キャピタリズムとか哲学、思想とか歴史を踏まえて作品を創っている人なのですが、彼の記事を読んで普通の大学に入った方がいいのかなと思い、四年制大学で遊び場が一番近い大学が青山学院大学だったので入学しました(笑)。


写真に出会ったのはいつ頃でしょうか?

たまたま誰かの知り合いが学校の卒業アルバムを制作する人で、その時人手不足で「沢山写真撮れるから来れば?」と言われて、フィルムや機材が使いたい放題だったのでそこで写真の技術とかを覚えました。大学四年生の時にふらふらしていたら、ワタリウム美術館で色々なアーティストを呼んで青山の道とかを使って展覧会をやっていたんです。その時にヤン・ファーブルという人がキュレーションをしていて、彼を含め沢山のアーティスト達も来ていて、何故かその人達に連れられて打ち上げとかにも参加させてもらったんですよね。その時も写真を沢山撮って、そこから美術とか写真を意識したのかな? ちょうどその頃知り合いがニューヨークに行っていて、お土産で『L’HIVER DE L’AMOUR BIS』という展覧会のパンフレットをくれたんです。PURPLEチームがキュレーションをしていて、ヴォルフガング・ティルマンスとか色々な現代美術の作品が載っていたのですが、何故か一番惹かれたのがマルタン・マルジェラのドキュメンタリーで、それが凄く気になったんです。ファッションの要素、ドキュメンタリー性、ポートレイトの要素など、全ての要素が入っていたんですよね。「こういうことが一番やりたかったんだ」とその時に思いました。ワタリウム美術館の時に撮っていた写真と頭の中でクロスオーバーして、その本を見たらアンダース・エドストロームの名前と「パリに住んでいるスウェーデン人です」とだけ書いてありました。とにかくよく分からないけど、フランス語を勉強してこの人に会いに行こうと思ったんです。大学生の時にフランス語の学校に行ったらたまたまそこにいた人に「何で来たの?」と言われて。「アンダース・エドストロームっていう人がいて、その人に会いたくてフランス語を勉強してる」と言ったら、その人の奥さんが知り合いで「連絡先だけは分かるよ」って。「これはもう行くしかない!」と思うじゃないですか。バイトをしてお金を貯めて、一年後くらいにフランスに行きました。


一年間という月日が空いてしまったら、日々の楽しい物事に気持ちが流れてしまい、そうした目標が薄れてしまう気がするのですが、フランス行きを有言実行することはそう簡単なことではないと思います。

その当時、漠然と思ったことが凄く大事というか、強かったんです。大人になると何かしらの理由を付けて考えてしまいがちですが、その頃は何も考えていなかったので、理由無く、思ったことをやる感覚でした。それを後で考えたら『アルケミスト 夢を旅した少年』(角川文庫)という本があり、フランスに行った時に暇だったので読んでいたのですが、「理由を付けて思ったことじゃないことをやっていくと、自分の人生に近付く」みたいなことが書いてあって、正しいと感じましたね。大人になるとどんどん理由を付けてやめていけるから、自分が何をしたかったのか分からなくなってくるじゃないですか。それを若い時に経験出来たから良かったなと思います。


実際にフランスに行き、アンダース(・エドストローム)さんと初めて会った時はいかがでしたか?

最初にアンダースにブックを見せた時、「アシスタントになりたいの?」と聞かれて、「そうです」と答えたら、「技術を学びたいの?」と更に聞かれて、アンダースの写真は技術どうこうではないので(笑)、「そうじゃないです」と答えたら、「僕は君の写真は良いと思うから、自分の方法論があるなら僕が良いと思った人を紹介するから、後は自分でどうにかしなさい」と言われたんです。『PURPLE』のエレン(・フライス)とオリヴィエ(・ザーム)にも一緒にミーティングに行った時、「そのまますぐに仕事しよう」と言われました。そこが日本との大きな違いで、日本は真っ先に経歴とか年齢とかを聞きますよね。でも僕が会った人達はブックを見て、それが良かったから「すぐ仕事をしよう」と言ってくれたんです。


その時にアンダースさんに見せた写真はどのようなものだったのでしょうか?

大学に通っていた時の美術科のドキュメント、友達、風景、スナップなどですね。写真のやり方も全然分からないし、今思うとよくあんなものを見せたなと思います(笑)。


パリには何年住んでいたのでしょうか?

丸々一年です。ダラダラとパリにいて何となく仕事をしている環境で、初めての仕事が『PURPLE』の表紙になったので、勘違いしますよね(笑)。テリー・リチャードソンやヴォルフガング・ティルマンス、ハーモニー・コリンも文章を書いていて、そんな雑誌の表紙になったので「俺、凄いじゃん!?」と素直に思いました。『PURPLE』 の仕事でMAISON MARGIELAのアトリエに行き、写真を撮ったりしていたので、「このままパリにいて写真を続けられるかな?」とも思ったのですが、パリにいた時は何かを自分で撮りたいと思うことは全く無かったんです。どうしようかと考えていた時に『PURPLE』のエレンに「何か作品出来た?」と聞かれて、「全く撮ってない」と言ったら、「それは正解だ」って言われたんです。「何で?」と聞いたら「あなたはフランスの人じゃないから、本当のフランスは撮れない。良い観光写真や綺麗な写真は撮れるけれど、その奥の写真は撮れるわけがないの」と言われました。それは凄く信用出来る言葉だなと思ったんです。この言葉が東京に帰った方が良いのかな、と思った決定的な出来事でした。その言葉があるので、海外雑誌の撮影などでも東京で撮ろうと思ったのが凄く大きいです。外国人が撮る東京も良いけれど、もう少しディープな東京で彼らが撮りたがる東京の、もう一歩先を撮ることが出来ますしね。


日本に帰国後、仕事環境はいかがでしたか?

某雑誌社にブックを持って行ったのですが、特に経歴なども言わずにブックを見せたら、「こういう写真、多いんだよね。『PURPLE』とかちゃんと見た方がいいよ」って言われて(笑)。当時、カルチャー誌で一番エッジがあった雑誌社の人にそんなことを言われたことが衝撃でしたね。自分達でしっかりと判断をして誰かを起用したり、提案している感覚は一切ありませんでした。そんなこともあったので、当時は若かったですし、お金儲けも考えていなかったので、仕事は慎重に選んでいましたね。


当時は具体的にどのような仕事をされていたのでしょうか?

パリから帰ってきた時に嫌な目にあったので、変わったことをした方がいいと思い、意図的に写真集を出さないようにしていました。当時の雑誌は東京の街と分かるような建物や、日本語の看板などは写しては駄目だったんです。昔のファッション誌などを見ると全て望遠で撮っているのですが、そうすると後ろがボケるので、それで街の風景を誤摩化していました。荒木(経惟)さんやフランスのフォトグラファー達は自分の街を綺麗に写していて、僕はそういう作品を見てきたので、東京の看板や街並みが格好良いと思っていました。帰国して、そこの価値観が違うので、昔は「クロップするなら僕の名前をクレジットに入れないで下さい」と言っていましたね。でも、それを無理矢理通していたら、いつの間にか今の雑誌は東京の街並みだらけですよね。5年前くらいだったらNGだったんです。今は日本語の看板だらけになってしまい、それがいいかどうかは別ですが、昔は和室なども絶対駄目だったので、今はある意味、多様性が出て良いことだとは思います。何かを成し遂げたい、変えたいと思っている人は、その逆をやった方が良いと思いますね。


昨今フィルムカメラが若者を中心に流行っていますが、流行に乗っているだけの若者達はいつか飽きる日が来ると思うんです。親さんは今までもこれからも、フィルムカメラでも撮り続けると思うのですが、その“続ける”ことこそが本当に大変だと思います。そうした継続するための原動力はどこから来るのでしょうか?

正直に言うと、一回仕事自体をやめていた時期もあって、3年くらいは仕事をほとんどしなかったんです。自分のコピーみたいなのが沢山世の中に出回っているのに、僕とかには良い案件が来ないので「何なんだろう?」と思ってしまい、その時に一回自分の仕事をやめようと思ったんです。その前に稼いだお金で生活していたので、最後の方は人にお金を借りないと生活が出来ないくらいでした。本当に割り切れたのは20代に言っていたことを、40代になって同じことを言うと皆がちゃんと聞いてくれたのが大きかったです。20代で同じことを言ってもただの生意気な奴だと思われて、当時ちゃんと話を聞いてくれたのは『DUNE』の林(文浩)さんくらいでした。今は(山﨑)潤祐君とかが育ってくれたので、前より味方が増えましたね。仕事が凄くやり易くなりました。その前までは生意気でしたし、あまりにも正論を言うのは実は良くないことだと今になって気付いたのですが(笑)。今思うと、確かに僕みたいな人はやり辛かっただろうなと思います。それと、何かを得ようとする時は、何かを捨てなきゃいけないというか。写真で成り上がりたいというような気持ちは全く無くなり、写真で撮ったモノや人が有名になっていくのが一番良いと思った時から、仕事が上手く出来るようになりましたね。前までは、自分のエゴで全部やろうとしていたので上手くいかなかったのですが、冷静に考えたら人のモノを撮ってお金を貰っている仕事なので、当たり前に還元しなきゃいけないですよね(笑)。若いモデルさん、女優さん、俳優さんをピックアップして良い写真を撮ると、その人の人生や見え方が変わってきますよね。例えば、映画を一本撮るのに半年くらいかかるけれど、写真の撮影だと一日で終わります。しかも世界中に出回るのは写真の方が多いので、歴史に残るモノは作れなかったとしても、歴史に残る作品に出るような人は育てられたり、人生を変えられるので、既に有名なモノや人は意識的に撮らないようにしています。


仕事をやめようと思った具体的なエピソードはありますか?

大昔に『DUNE』か『PURPLE』で撮ったストーリーが、そのまま某雑誌に巻頭ページとして掲載されていて、全く同じページネーションや構図で、「こんなことが許されるのか……」というのが正直な感想でした。あまりにも酷かったので、直接編集部に抗議の電話をして、「今すぐこの写真家の連絡先を教えろ」と言ったこともあります(笑)。若い時は納得がいかないことを行動に移していたので、悪い噂が広まって全然仕事が無かったですね。昔は自分の条件と合わない仕事を断ったり、コピーしている人が出ている本だからやらないというスタンスだったので、そうすると仕事も限られて、お金も無いので、コーラばかり飲んでましたね。最近、仕事らしい仕事をする理由は、大真面目にやっていると許せないことだらけになり、今でも「何なんだろう?」と思うことはあって。『I-D JAPAN』に僕の写真みたいなのが沢山載っていて、編集長の(林)香寿美ちゃんに「全員、親君のファンだから許してあげて」と言われて、僕も歳だし、仕方の無いことなのかなっていう話をしていました。僕が荒木さんの方法論を研究してセクシーな写真を撮ろうと思ったことと一緒で、今の若い子達も一歩を踏み出さないと次の世代には残らないですからね。


仕事をしていない時期も写真は撮り続けてましたか?

写真は撮っていました。今考えるとフィルムだから凄くお金が掛かっていましたね。「無駄かな?」と思うものも沢山撮っていましたが、失敗した写真の中から方法論を考えるようにしていました。簡単に言うと、ライアン・マッギンリーの写真に光の線が入っていますよね。昔だったら失敗の例でしたが、当時のニューヨークは皆がデジタルカメラに慣れ始めた頃だったので、そのタイミングであの作品を発表して、フィルムにしか出来ない偶然性が出たんです。それをキュレーションの人達がちゃんと言葉にしたり、マネージメントしてくれたので、そうした写真作品が美術にもなりますよね。


日常生活でも写真を撮っていますか?

はい、普段も撮ります。デジタルもフィルムも、ポケットに入るサイズのカメラを持ち歩いてますね。ブログの写真は、完全に内輪向けにふざけてアップしています(笑)。


写真が嫌になったり、悩んだりすることはあるのでしょうか?

社会のシステムで馬鹿らしいと思うことはありますが、撮ること自体が嫌になるようなことは全くありません。哲学じゃないですが、社会に自分が適応出来ないのであれば自分が変わるしかないですし、でも自分が完全に変わってしまったら仕事する意味も無いですし、何かをやる意味が無いので、そこの矛盾が常にあります。相対する矛盾の中で考えていて、「自分を少し変えなければいけないのか? ここは自分を通すのか?」といったバランスが取れるようになってから仕事が出来るようになりましたね。前は自分が正しいと思っていたので、無理矢理にでも社会を変えた方がいいのかとも思っていたのですが、逆に自分をフィットさせたら社会が少し変わるのかなと思います。例えば、自分の仕事を貫いていたら日本語の看板もOKになったり、昔はフィルムを使っては駄目でしたが、自腹で仕事をしていたらライアンなども出てきてくれて、フィルムが良いという風潮になったり。


本来の写真家というのはどう在るべきだと思いますか?

フォトグラファーは全てにおいて「把握」しなければならない職業だと思います。アートディレクターと一緒で、全てを把握している人がやる仕事です。某有名な写真家は朝7時に起きて、芸能新聞、経済新聞、スポーツ新聞を読んで、ワイドショーを観てから仕事をして、夜は映画か、演劇か、誰かと食事をすると決めていると聞いたことがあります。美術なども含めた全ての情報が頭に入っていて、本当は詳しくないといけないのですが、日本だと天才風な方が良いとされるというか、何も分からないけれどセンス一発で撮れるのが良いという風潮がありますよね。実際は知識の積み重ねによって個性が出るのですが。なので「興味が無い」と断言している人の方が、誰かの写真にそっくりなことが多い気がします。ちゃんと好奇心でモノを見ている人は、自分なりにアウトプットをして自分なりの写真になるというか。本当は好奇心が個性を作っていくと思うので。「興味が無い」とか「分からない」などと実際に口で言っていると、その言葉に引っ張られてしまうので。もちろん知らないのは前提なんだけれど、知らないのであればすぐに調べないと。フィルムで撮るというのはすごくリスクがあるので、リスク軽減のために言う場合もあるかもしれないですよね。変な写真だったとしても「俺、洋服に興味無いから」と言えてしまうので。逆に自分を追い込んだ方が良い写真が撮れると思います。


フィルム写真のメリット、デメリットを教えて下さい。

一番は見えないことです。デジタルだと写真の確認がその場で出来るので、撮りたい画を撮れた時点で満足して終わりになってしまいますが、満足した所の先があると思います。後は自分の足りない部分を補える部分ですね。空気感だったりとか。テクニックやロジックの話になりますが、僕の場合はネガフィルムとポジフィルムの違いで撮っていて、芸能事務所からOKの許可が出辛い時に安全なのはネガなんです。ストロボを焚いて撮ると皮膚感も全て飛ぶので、そうすると許可が出易いんです。後は、何となくの風潮でネガの方がお洒落に見えることもあってOKになります。ポジだとデジタルよりも彩度が高いので、全て出てしまい生々しく写るんです。荒木さんの写真は生々しくて、ライアンの写真はファンタジーですよね。そこの差があり、本当はポジで撮りたいのですが、許可や修正のことを考えるとリスクがあり過ぎるので、ネガで撮ったりします。全く同じシチュエーションで同じ人で撮ったとしても、ネガとポジで全然色気が違います。ネガで撮ると安定してお洒落に見えますし、ポジは生々しくて単純にエロい感じに写ります。当時「ネガも多くなってきたし、どうしようかな?」と思った時に、「荒木さんの方法論って何だろう?」と考えたら、全てポジで撮影していたんです。沢渡(朔)さんも昔の篠山(紀信)さんも。「ポジを使おう!」とその時に思いましたね。写真を真似するというよりも、彼らがやっていることは何なのかを考えるのが良いのかもしれないですね。デメリットとしては、フィルムのツールは似たものになってしまうので、意識的にどのフィルムを使うかを考えないと、おそらく皆、同じような写真になると思います。


親さんは今、何を一番撮りたいですか?

一番楽しいのは雑誌ですね。大きい枠の中で自分の好きなように動けるので。広告になると小さい枠にはめられてしまいますし、雑誌だと新しいモデルもトライ出来ますし、全然関係の無い写真を入れても怒られないので。



















CHIKASHI SUZUKI