SHOICHI AOKI 2/2

FREEーSTREET
ISSUE 8
INTERVIEW TEXT SHINGO ISOYAMA
『FRUITS』は当初から1ページにつき一人をレイアウトしていました。当時、雑誌に1ページ丸々掲載されるなんて女優さんくらいしかあり得なかったのではないでしょうか。

そうですよね。『STREET』の初期は、レイアウトしてデザインしようとした時期もありました。しばらくして、目くらまししてもしょうがないかなって思うようになって。載っているファッションはその子達の作品だと考えているので、ちゃんと見せたいし、ちゃんと見てもらいたいので、1ページに1点が基本になりました。


『FRUITS』は『STREET』創刊11年後の1996年に創刊されます。原宿の歩行者天国が封鎖されるのは1997年です。青木さんはその封鎖に関してどのように感じていましたか。

代々木公園の方と、原宿駅前から表参道交差点まで全部がホコ天だったんです。代々木公園の方は、その前に廃止になっていて、表参道は1997年に中止になりました。原宿は元々東京の他のエリアに比べて西洋っぽい独特の雰囲気があった。戦後、代々木公園にアメリカ占領軍のワシントンハイツがあったり、ラフォーレ原宿の所が教会だったり、同潤会アパートがあったり。今でも原宿は、東京の中では違うムードがありますよね。その中で、毎週日曜日にホコ天になる表参道は憩いの場所でした。今の表参道は、通り道にしかなってないですよね。ホコ天の時は、座ってる人もいるし、立ち止まっている人もいた。全体的にのんびりした雰囲気があった。当時はスマホも無かったですしね。ケータイは途中から出てくるんですけど。日曜日に原宿に行くと、同じ学校じゃない友達がホコ天のどこかにいて、そこに参加するみたいな感じもありましたね。そのコミュニケーションも、言葉だけじゃなくて、新しいファッションを提案し合ったり色々なやり取りがありました。そういう中に5人くらい突出した才能の子がいて、座ったり立ったりしているんですけど、その横を何万もの人が通るじゃないですか。それ自体がメディアですよね。「今、どんなのが流行ってんの?」って原宿に見に来る子達も多かった。お洒落に関心のある子は、誰が一番格好良い子かをすぐに見付けるし、「今、あれが面白いね」みたいな感覚がすぐに広がっていく。当然、真似する子達も出てくる。そういう子達が増えてくると、最初にやってた子達は一緒にされるのが嫌なので、また新しいファッションを打ち出すというサイクルがありましたね。結果的に2~3ヵ月で新しい流行が出ていました。やっぱり新しいファッションを生み出すには、広場のようなアイディアが発酵する場所が必要だと思うんですよね。


世界各国の広場に関してはいかがでしょうか。

「都市」というテーマでいうと、ストリートからファッションが生まれるには、広場が関係あるのかなと思っています。ロンドンではポートベロー・マーケットやカムデン・マーケットから新しいファッションが生まれていましたし、ソーホーやコヴェント・ガーデン近くの細い道のニール・ストリートもそうでした。どこも車が通れないか、ほとんど通らないエリアです。パンクファッションもキングス・ロードから生まれています。キングス・ロードはホコ天ではないですが、広場化するには十分な歩道の道幅がある。パンクファッションは生まれたというよりもマルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドが作ったムーヴメントですが。スローン・スクエア駅から彼らの店までの結構長い通りは、パンクスがたむろする広場になっていたんだと思います。パリのレアールも車がほとんど通らないエリアだったんですよ。


仙台、名古屋、大阪、福岡など、早い段階で地方でも撮られていましたよね。

当時『FRUITS』みたいな雑誌が無かったので、実際に原宿の子達がどんな格好をしているかっていう情報は地方にはほとんど流れていなかったんです。なので、その地方独特のファッションが生まれてたんですよ。行かないと分からないという状態でした。「大阪では違う種類の蝶が発生してるぞ!」っていう噂が流れてきて、行ってみたら「TAKUYA ANGELとかマジで着ている子がいるんだな」みたいな感じで。後はTRAI VENTIとかBEAUTY:BEASTとかの本店がありましたし。COMME DES GARÇONSの着方も凄かったです。後は、ALICE AUAAのゴスの格好も。もう見たことがないようなファッションでめちゃくちゃ。独自の進化をしていて。本当に進化論そのものですよ。ダーウィンの進化論で、地理的な隔離が進化には重要っていう理論があって。当時は情報的に隔離されていたので、独自の進化をしていた。今はもう情報が均質化していて、多分同じファッションになってると思う。その地方のファッションのボスがいたりしますよね。若い子達がそこを目指すという動きは必ずあるので。そういうのが組み合わさって、街のテンションと洋服のテンションが合わさっていく。その街の特色がストリートに出現するので、面白かったですけどね。


『FRUITS』では自己紹介や友人募集だったり、交流を促進する企画もありましたね。

『FRUITS』はね、最初からハガキがいっぱい来たんですよ。友達募集もそういう要望が結構あって、やっちゃって大丈夫なのかな、って不安だったんですけどね。知らない子同士を会わせるって、今でいうところの出会い系みたいなことですから(笑)。


その後、2001年に「代官山スタイル」と書かれた号もありました。

それはある種、原宿のファッションを諦めた時期ですね。原宿ファッションが一つのピークが過ぎたというか。ちょうど歩行者天国中止の件があって、その2~3年後じゃなかったかな。ホコ天中止が原宿ファッションをダメにするだろうな、とは思ってたんですけど、本当にダメになっていった時期。雑誌の『MINI』とかが原宿ファッションのカウンター的なファッションを打ち出していて、原宿のお洒落な子達がどんどんシンプルなファッションになっていったんですよね。主役は原宿から代官山に移りつつあって、代官山のWRとかGRAPEVINE BY K3とか、いわゆる神的なセレクトショップが幾つかあったんです。それはスタイリスト主導のファッションで、シンプルなんだけど、結構高いインポートの服をコーディネートしたり。着る子に存在感がないと着こなせないようなファッションが流行ってきて、ちょっと僕の興味からはズレたんですよね。それで僕は『FRUITS』は撮らなくなっちゃったんですけど。ただ、当時のファッションに一番精通している子に写真を撮ってもらう形で継続しました。ドキュメンタリーを止めたくなかったので。今見直すとかなりレベルの高いファッションです。


その号には、石原都知事に向けて書かれた嘆願書も掲載されています。また当時は、原宿のお店や増田セバスチャンさんなどと署名運動もされていますね。

増田さんと二人で復活運動をやったんです。ホコ天をなくしたら原宿がダメになるって。でも政治的なことや原宿の古株の人とかが複雑に絡み合っていて、当時はどうにもならなかったです。日本中どこでもそうなのかもしれないんですけど、原宿も例外ではなく、若者文化に対する嫌悪を持っている人もいますし。それと警察にとってはコストなんですよね、ホコ天って。車を止めて事故無く運営しないといけないっていうのは。そこを説得するだけの材料が必要になってくるんですけど。それにゴミの問題もあったりしました。今の原宿は観光地としての意味合いが強くなっていますね。多分、街にいる人の八割くらいが観光客。それは間違ってはいないんですけど、観光の源泉が過去に作られたイメージを引きずっているだけなので、そこはどうなのかなって。今は渋谷区長を含め、多くの人が復活に関してポジティヴに捉えてくれていると思うのですが。ホコ天を上手く復活させれば、ファッションが戻ってくる可能性もあるのでは、と今現在も思っていますよ。


人と違うという在り方や差異を否定や欠如にすり替えて考えている人は、未だに多くいます。青木さんの作られるものは、個人の在り方や生き方を肯定するということが一つの基軸になっている気がします。

そこはかなり意識的に考えていた部分ですね。


無くなったものについては多くが語られていると思いますが、これから無くなりつつ物事に関してもお聞かせ下さい。もしかするとそこにポジティヴな要素があるのではないかと思います。

原宿の面白いところは、「原宿がこのままじゃダメになっちゃう」って言う人が沢山いることですね。挨拶代わりみたいに、会うとそういう話になったり。それも、経済的にダメになるんじゃなくて、カルチャー的に、ファッション的につまらなくなることを心配する人が世代を問わず大勢いる。そんな街、世界中のどこにもないと思いますよ。そこに可能性を感じます。それと、雑誌が終わりつつありますよね。世界的な潮流なので如何ともし難いですが、全然違った形に変容させることが出来る人が現れたらガラッと変わりそうなのですが。難しいかなぁ。


歩行者天国の封鎖以降、色々な建築物が表参道に出来ました。ルイ・ヴィトン表参道ビルは2002年、ディオール表参道とONE表参道が2003年で、表参道ヒルズが2006年に完成しています。ちなみに、いずれも建築家は日本人です。『TUNE』が創刊されるのは、2004年ですが、この流れは関係あるのでしょうか?

どうでしょうね。『TUNE』が出来たのは、CANNABISの存在が大きかったと思います。それまでは、原宿の男子には裏原系ファッションしかなかったですから。極端に言い切ってしまいましたが、そういう状況でした。それが『FRUITS』が生まれた時のように、全く新しいファッションが突然出現した感じでした。ストリートファッションというと裏原のストリート系の意味だと思われていた時期でもあって、結構長かったですね。


『FRUITS』に載っている人と『TUNE』に載っている人には、どのような影響関係がありましたか?

当初『FRUITS』は男の子と女の子のファッションが同じ方向を向いていたので、両方を載せていました。ですが、男子に裏原系ファッションが流行りだして、1999年くらいからは原宿で支配的になり、男の子は裏原系ファッション一本になりました。『FRUITS』で撮影しているような女の子の原宿ファッションとはカップルが成立しにくい状況だったと思います。一緒に歩いていたら合わないというレベルで。その後、裏原系の男子のファッションと相性の良いファッションという意味もあり、代官山がリードするファッションが生まれた。その期間も5年程で長かったんですが、ファッション的に成熟し、若い子達が追いついて行けなくなって来て、原宿らしいファッションが少しずつ戻って行った結果、きゃりーぱみゅぱみゅのような存在が出て来たりしましたね。男子もCANNABISが口火を切った感じがあるのですが、裏原系のカウンターのようなファッションが生まれたので『TUNE』を作りました。今は、世界的に男性のストリート系のファッションが主導的じゃないですか。VETEMENTSとかOFF-WHITEとか。ハイブランドにまで影響しているので、これからは女の子にも広がる形で新しいファッションが生まれるのかな、って思います。まだ少し時間が掛かるとは思うんですけど。


最近の世界の動き、例えばインスタグラム以降の世界に関してはどのようにお考えでしょうか。

僕もインスタグラムは重要だと考えているんですけど、考えるスピードよりも先に現実が動いていくので、どうしたらいいのか分からないんですけどね。イメージが世界で共有されるっていう状況を加速させたのがインスタグラムですよね。昔は、最終的にどうビジネスにするかとか、お金にするかっていうことがテーマだったと思うんですけど、今はそれを飛び越えてビジネスにならないところに人が集まったりしている。でも逆に承認が無いと生きていけないじゃん、って言われる可能性もある。この前、ニューヨークに30年振りに行ったんですけど、VFILESのイベントがとても面白かったので、翌日ソーホーのショップに行ってみたんです。店の前のベンチにお洒落な子達が座っていたので「写真撮っていい?」って話しかけた時の反応が凄いポジティヴだったんですよ。『STREET』のインスタを見せたら凄い喜んでくれて、後でメールが来たりとか。昔のお洒落な子達の反応とは違って、面白かったです。昔は、喜んでいるんだけど喜んでいるところは見せなかったりとか、嫌がる奴とかがいたりとか。今は状況が変わりました。それはもう明らかにインスタグラムのお陰ですね。パリコレにも20年振りに行って撮影したんですが、トップモデル達がスナップされることに凄くポジティヴで、それは想像以上でした。考えてみれば、スナップするフォトグラファーが100人以上いて、それぞれがSNSに投稿すると数千万人に拡散する。それは彼女達の仕事にもポジティヴに影響するはずなので。トップのトップまで登り詰めちゃうと、表に出ないですぐ帰っちゃいますけど。後はTIK TOKとかを見てると、今は想像出来ないような新しいSNSが生まれてくるのかなと思ってます。


『STREET』もインスタグラムは約9.9万人のフォロワーがいますね。

でも正直、『FRUITS』は日本国内だけで10万部以上発行していた時期もあるので、無料で10万人フォロワーって実は大きな数字ではない(笑)。雑誌は、立ち読みとか友達と回し読みとか考えたら、10万部発行だとその何倍もの人数が見てたはずで。まぁ、昔は他に選択肢が無かったということもあるんですけど。なので、仮に100万人のフォロワーがいたとしても、驚くようなことではないような気がするんですが。


今後の展望に関してお聞かせください。

アーカイヴをどうインターネット化するかという課題が数年前からあります。ようやく答えが見付かったかなというところです。それからちょうど今、新しい雑誌を作ろうかなって思っているんです。


それは楽しみですね。どのような内容になるのでしょうか。

テーマは不協和音なのですが。VETEMENTS以降なのかなぁ、あまりブランドの動向には関心がないので間違っているかもしれませんが。ファストファッションが支配的だった中で、カウンター的な提案をしたじゃないですか。価格帯も含め、デザイン的にも。それに共感したヨーロッパのユーザー達の心意気といっていいのか、それも凄いなと思いました。だってDHLのロゴを取り入れたTシャツが10万円とかで、それを競って購入したんでしょ。デザイナーのデムナ・ヴァザリアの力だと思うんですが。彼は元々MAISON MARTIN MARGIELAのチーフデザイナーだったので、ジョン・ガリアーノがクリエイティヴ・ディレクターに就任することに対する抗議で、直前まで手掛けていたマルタンのビッグシリーズとマルタンの精神を継承する形でスタートした、と思っているんですが。マルタン本人は怒ってる“らしい”です(笑)。いきなりのハイプライスもマルタン精神の継承ですよね(笑)。それとOFF-WHITEのヒットも、メンズコンシャスというか、ストリート系のメンズファッションで、ラグジュアリーで。VETEMENTSはビッグシリーズからの継承なので、バランスを崩すことがコンセプト。OFF-WHITEもあの目立つグラフィックや、ベルトとか、バランスの良いコーディネートという価値観を前提にしていないなと感じたんです。今皆が競って買っているBALENCIAGAの10万円くらいする大きなスニーカーも、バランスを考えてたら履けないし、作れない。不協和音的な要素を敢えて入れてるのかなと思いました。そもそもトータルコーディネートなんて考えていないというか、逆にダサいみたいな。そんなメッセージを感じたんですよね。僕が『FRUITS』や『TUNE』を作っていた時も、あんなに奇抜な格好なんだけど、バランスという視点は重視していたんですよ。でも現代音楽が不協和音の採用から始まったように、ファッションにも新しい潮流がやってきたのかなと。そこに共鳴している子達が日本にもいますので、フォローアップしようかなと考えています。休刊していた『TUNE』の復活の要望が強くあったので、『TUNE』がタイトルも内容も刷新されて復活するというイメージです。まぁ、出来るか分かんないですが。タイトルは『DISCORDE』にしようと思っています。


新しく創られる雑誌で築こうとしているストリートとメディアの関係とは、どのようなものでしょうか。

ストリートから新しく生まれるファッションとか、ファッション能力の優れた子達は、早く取り上げないと消えてしまうような気がしています。『FRUITS』は観察と記録が目的で、流行の仕掛けみたいなことはやらないようにしていたのですが、結果的に『FRUITS』が無かったら、原宿ファッションが世界で高く評価されるような状態にまでなったかどうかは疑問です。ファッション関係者やタレントとして有名になった子達が沢山いますが、『FRUITS』がキッカケや後押しになっているケースも多くあると思います。新しいファッションも才能も、生まれた当初は不安定で小さな存在です。それをキャッチアップして手助けすることもメディアの役目だと思っています。大きなムーヴメントになったDCブームもパンクも裏原ファッションも、最初は一人か数人からスタートしています。その初期の段階で捕まえられるかどうかというところがメディアとしての鍵ですね。今僕が大きなターニングポイントだと思っている動きも、メディアがフォローアップしないとすぐに消えてしまうかもしれません。メディアといっても、以前は雑誌で十分だったのですが、雑誌はワンオブゼムでしかなくなっています。むしろSNSやウェブサイトが中心で、雑誌は象徴として存在しているような形態になるのかなと思っています。雑誌の形態や流通、経営の枠組みも、新しく考え直さないといけない時代だと思います。