LOCAL, GLOBAL, IN-BETWEEN

FREEーASIA
ISSUE 8
TEXT & PHOTOGRAPHY YUSUKE KOISHI
ローカル、グローバル、その狭間。

三年前の春、GOOGLE MAPで世界中の知らない街のストリートビューをしばらく眺めていた時期がある。仕事で海外の都市を訪れても、風景の中に現れる見慣れたロゴや記号、モノ、バズワード、そういった「カルチャー」のパターンに何となく飽きてしまって、どこか知らない都市をふと訪れてみたくなったからだ。

訪れたいと思った街のイメージは、大都市特有の日常の風情があり、普段東京では経験することのない混沌さがある場所だった。欧米文化や言葉があまり通じないところ。古さと新しさが混在し、そして人のエネルギーが溢れる街に行きたかった。ここまでフィルタリングしてしまうと世界を眺めてもそれほど選択肢が無いように思えた。南米、アフリカ、中東か、あるいは東南アジアだろうと当たりをつけ、地図を眺め、東京から直行便が出ている街を選んだ結果、ベトナムの首都ハノイを訪れることにした。ファッションの話題でこの街がフィーチャーされていなかったのが訪問の決め手だった。空港から市街にタクシーで向かう途中、見慣れない建築物と道路中を埋め尽くすけたたましいモーターバイクの騒音を聞いて、心の奥底で安堵したことを覚えている。

ハノイの中心部は街の中央にあるホアンキエム湖を中心に、主に南北に分かれている。北側は旧市街で、ノスタルジックなアジアの風景を求める観光客と、路面のマーケットで生活を営む地元の人々が混ざり合う。ストリートフードと排気ガスの匂いが混ざって漂うストリートには雑貨、食品、また工具や電化製品まで様々な店が並ぶが、一番目を引くのは衣料品店だろう。ベトナム国内で生産され、本来はMADE IN VIETNAMのブランド品として国外に輸出されるはずだったであろう、NIKEやADIDAS、CALVIN KLEINやLACOSTEなど見慣れたブランドの横流し品が、コピー商品とともに並んでいる。中にはCHANELのメンズウェアを売っている店まであるが、当然ながらカール・ラガーフェルドがデザインしたものではない。

南側には、かつてフランスの植民地だった頃に建てられた、フランス風の建築がまだ残っている。その多くは高級住宅や政府機関としてまだ使われているようだ。夜、オレンジ色の外灯の光が象牙色の壁を夜に照らす光景を歩きながら眺めると、少しだけパリのマレ地区の夜を思い出す。政府機関の建物の入り口には、気怠さと険しさが入り混じった表情を浮かべた若い警官が立っていて、彼らが着るカーキグリーンの制服に夜の外灯の光が当たる様子は言葉にするのが難しい。肌寒くなると、いつもこの街に響くバイクの騒音と、混沌とした町並み、そして蒸し暑い夜の光景が懐かしくなる。

世界中の雑誌で毎月、あらゆる国の「カルチャー」が特集されている。我々が乗っかっている資本主義のシステムは、常にまだ消費されていない「新しいカルチャー」を追い求めている。ファッションも同様に、常に新しい「カルチャー」を養分として繁茂する。ここで語られる「カルチャー」や「文化」とは、二~三百年ほどの間、ヨーロッパ、時にアメリカで生まれたシステムとの距離感を基準に無意識に語られ、評価されている「モノ」のことだ。あらゆる文化的対象が欧米のシステムで名前を新たに獲得することではじめて権威を持ち、広がっていく姿は我々にとっては見慣れた話だと思う。例えば、権威とは無縁の路上から生まれたバンクシーのグラフィティでさえ、アートマーケットの文脈で語られ、「ストリートアート」という名前がつけられることで、はじめて多くの人に認識され価値を認め始める。

東京、香港、シンガポール……。アジアの大都市の「程よい異質感」は、国内外の誰かによって採集され、「グローバル」な文脈で理解可能な形に再編集され、消費地に向けて発信されてきた。こういった異質な感覚が世界に溶け込み当たり前のものになってしまうまでの過程を我々は「カルチャー」と呼んでいるのだろう。人はカルチャーを温度に例えてその強度を形容するが、熱いのは我々の社会であり、社会の中で「何か」が溶ける過程を我々はカルチャーと呼んでいるにすぎないのかもしれないと思う。

日本では江戸後期には西洋文化を咀嚼し自らの生活や風習に取り入れるという行為を進歩的としていた。そのスタイルをかつて「和魂洋才」といったが、欧州が世界の覇権を握る前は中国文化を意識した、「和魂漢才」という言葉が使われていた。こういった言葉が残っていることが理由で、日本は歴史的に極端に舶来主義であると評価する人もいるようだが、人類史を振り返ると舶来主義は日本というよりも人間の性質のようだ。

実際、ヨーロッパ発祥と思われているものの多くは、イスラム圏からヨーロッパに伝わったものであるという事実は、少しだけ世界史の教科書に書かれてはいるものの、広く周知されていない事実だろう。イラク戦争で徹底的に破壊されてしまったイラクの首都バグダードはおよそ千年前、現在のニューヨークに比肩する世界経済と文化のるつぼだった。今、CNNやBBCのニュースに時折映るバグダードの姿を見て、当時の栄華を想像するのは難しい。当時、世界各地の「カルチャー」はおそらく、この砂漠の街の基準で評価されていたのかもしれないと思うと不思議な気分になる。世界中の人間が「移民」としてバグダードへ集まり、その街で暮らしていた。世界中の新しいものが新たな名前を獲得し、広がっていく中心地だったのだ。ここに住む移民達がアラビア語を自国語へ苦心しながら翻訳し「カルチャー」として世界各地に紹介していた姿を想像すると、それは世界の大都市へ移住した現代人が「グローバルで多様」と称する価値観を世界に発信する今と少し重なる。

「FOR THINKERS AND DRINKERS.」という看板を掲げるBAR TADIOTOは、植民地時代に建てられたオペラ座の近くにある。いかにもYOHJI YAMAMOTOがインスピレーションにしそうな、モロッコ風の古着を合わせた独特のスタイルで、いつも気怠そうにウイスキーを飲みながら仕事をしているのは、オーナーのNGUYEN QUI DUCだ。表向きにはバー、ラーメン屋、そして古着屋を経営するビジネスマンだが、本業は作家である。彼はベトナム戦争時の1969年にアメリカの西海岸に亡命した元難民だが、2006年にハノイに移住して十年ほどになる。故郷の街ではなく、ハノイを選んだのは街を訪れたときのエネルギーを感じたからだという。共産党の検閲があり本を出版することは容易ではないこの国で、文章を書く彼の店には、自然と毎晩、多様な人が集まる。ドナルド・トランプやウラジミール・プーチンも泊まるホテル、メトロポール ハノイに滞在する外国人、美術関係者、ビジネスオーナー、建築家、映像作家、写真家や編集者、少し背伸びをする若い大学生、海外で「文化人」として活動している帰国中のベトナム人、そして得体の知れない人々。ベトナム語の他に、英語やフランス語が飛び交うその場所は、混沌としたハノイと世界が繋がる薄暗い狭間である。そこはグローバル化されていないローカルな「何か」がカルチャーとして溶けていく過程を見ることが出来る生きた劇場のようだ。「出来ることなら、戦争ではなくて、70年代のゴールデン街に入り浸りたかった」と語る彼の周りを見ていると、もしかすると70年代の東京はかつてこういったものだったのかもしれないと想像してしまう。

蒸し暑い夏の季節、一年振りにこの街を改めて訪ねると、MAISON MARGIELA、SAINT LAURENT PARISなどを扱うラグジュアリーブティックRUNWAYの路面店がいつも通るストリートから撤退し商業ビルに移転していた。南ベトナムのホーチミン市(旧サイゴン)では、一つの権威になっているらしいこのショップが、この北ベトナム側のハノイでも南側にあるというのは、何だか歴史に似て皮肉なものを感じてしまう。強い日差しの中で、日焼けして浅黒くなった顔の男が二人、かつてそのブティックがあったビルのエントランスの階段に座っていた。険しい表情でタバコを吸っているバイクタクシーのドライバーと、空を仰ぐ建設作業員らしき男。石畳の歩道を歩いてその前を横切る女子学生達。砂埃で汚れた階段の脇のその光景には、まだファッションが言葉に出来ないエネルギーが潜んでいる。

「最近は、フランスの植民地時代のスタイルをもてはやすのがトレンドになっている。『COLONIAL TASTE』という言葉で世界中にフィーチャーされてしまってね。良い思い出ばかりではないはずなのだけれど、若者と外国人を惹きつけるには手段としては効果的らしい。本当は誰かが新しい何かを発明しなければならないのかもしれないと思う。名前のまだない何かを」とDUCは語る。

植民地時代に建てられたフランス調の建物の中はリノベーションされ、中には新しいショップやレストランが作られつつあった。植民地であることに抗ってきたこの街の古い建物に、少しずつ見慣れたロゴが現れ、そこに若者と外国人が集まるというトレンドも一つの皮肉だろうか。

「簡単に名前がつけられないものでありたいと思う」。

街には日がまた登り沈み、人やモノが流れていく。モノだけでなく人や思想までが記号化され消費されていく様子は、社会の中の自然なのだ。我々は世界という名の野生で今を生きている。都市の自然、そのローカルとグローバルの狭間にある場所から、我々が求めるシーンは生まれていく。



A MAN WITH YANKEES CAP




LOUIS VUITTON AND BIKES




NGUYEN QUI DUC




I WANT TO BE FASHIONABLE NO MATTER WHEN




A BOY WITH NIKE CHAIN




A BIKE COVERED BY COMMUNISM