BEN LERNER

現在という物語。
INTERVIEW TEXT YUSUKE KOISHI
昨年の10月、ニューヨークで3週間ほど滞在する機会があった。慌ただしい街にようやく慣れ、ダウンタウンの路上で考え事をしながら歩く余裕ができた頃、無性に小説が読みたくなり、書店で偶然手に取った本がベン・ラーナーの『10:04』(2014/PICADOR USA)だった。「LITERATURE」と書かれたポップの下に積まれた本の山を眺めた時、その数字で書かれたタイトルが目を惹いた。CDを買わなくても音楽を聴けるようになってしまってからは、こうやってぱっと直感で買う娯楽品というと本と洋服くらいしか無いのかもしれないと思いながら、冒頭のページをめくるとそこにはニューヨークの今が書かれていた。

ニューヨークはあらゆる領域において世界で最も競争が激しい街といわれている。それは作家にとっても例外ではない。ファッションにとってパリが発表の場として中心に存在しているのと同様、近代から現代の文芸においてニューヨークという街が果たしてきた役割は大きい。そして歴史を通してこの街から数多くの大作家が生まれてきた。名前を挙げてみると『白鯨』のハーマン・メルヴィル、『ティファニーで朝食を』のトルーマン・カポーティ、『グレート・ギャツビー』のスコット・フィッツジェラルド、『ライ麦畑でつかまえて』のJ・D・サリンジャー、『スローターハウス5』のカート・ヴォネガット、短編小説の名手アーウィン・ショー。存命の作家を入れてもジョン・アップダイク、フィリップ・ロスやポール・オースターなど世界的なスター作家ばかりで、現代において彼らの書いた作品は直接その本を読まない人にさえ重力のように見えない影響を与えているといっていい。そしてコンデナスト社が1925年から発行を続ける『THE NEW YORKER』での「FICTION」のコーナーは今でも世界的作家として英語圏に周知されるための登竜門となっており、これを読むために雑誌を購読している人も少なくない。村上春樹が世界的に知られるようにきっかけの一つが、この雑誌で短編が掲載されたことだともいわれている。

1979年、ベン・ラーナーはアメリカ中西部にある人口12万ほどの街、カンザス州トピカに生まれた。大学卒業後は詩人として活動し始め、20代のうちに3冊の詩集を発行し、若くして国内外で幾つかの賞を獲得、2011年に初めての小説である『LEAVING THE ATOCHA STATION』を出版。その後、2012年には前述した『THE NEW YORKER』に短編小説を発表、創作の他にもアートや文芸に対する批評やエッセイにも定評があり、アメリカ若手作家の有望株として名乗り出ている。この彼が2014年に新しい試みを孕んだ小説を発表した。それが『10:04』だった。

この『10:04』は面白いことに評価が割れている。「彼が残りの人生で一切本を書かなかったとしても、この本は未来に残るだろう」(THE NEW YORK REVIEW OF BOOKS)といった絶大な賛辞がある一方で、取材側が良し悪しを決めかねたスタンスで書いたインタビューや、「最後まで何も起きないし、登場人物もつまらない」あるいは「物語が不在だ」といったような読書家による手厳しいレビューも散見している。確かに彼の作品の中には精緻に作られた物語が存在しないし、劇的な事件も殆ど起きない。そこでは作者のラーナーと同じく、若手作家の主人公がニューヨークという大都市の中で生活する一つ一つのシーン、そして目の前の現実の出来事を描写するモノローグが一見続いていくだけなのだ。

作品に対する割れた評価を読んでいるうち、文学史上重要な論争の一つである芥川龍之介と谷崎潤一郎のやり取りのことを思い出した。「筋の面白さが作品そのものの芸術的価値を強めるということはない」という芥川に対して、「筋の面白さを除外するのは、小説という形式がもつ特権を捨ててしまふことである」と谷崎が返したことから生まれた論争は芥川の自殺によって決着が付くことも無く途絶えてしまったが、この80年以上前の論争がベン・ラーナーの新たな試みにより、国境と時代を超えて再び蘇っているような気がした。今度は2人の作家ではなく一般の読者達の手によって。

歴史的に文学では「自己と社会の摩擦」が主題として扱われることが多い。本当はこう思っているのに、思うように振る舞うことができないといった、心の葛藤、個人と社会の間に生まれる違和感、あるいは自分自身への疑い。その時々の現代人が自らのアイデンティティについて多くの人が葛藤を抱える中、自我を強く揺さぶり、心の動きを緻密に描写する作品は共感を集めてきた。中にはコンセプチュアルな思想を物語に編み込んだ作品もあれば、セックス、ドラッグ、死、貧困や暴力などの刺激物を巧く使いながら非日常的な世界観を立ち上げていくものもある。

ラーナーの新しさは目の前の現実を描写し続けることで、自然と物語が生まれてくるという可能性を再び示したことにあるだろう。作家である主人公がニューヨークの日常にただ巻き込まれて行き、何気ない街の雰囲気、人の様子、日々の出来事、それに反応する心の描写が即興の様に書かれていく。そこには作為的な「小説的事件」は起きないが、リズムを持って書き出された出来事は確かに豊かな物語性を孕んでいる。

かつて小林秀雄は、古典と向き合うには現代の観念を持ち出してはならないと言っていたらしい。古代の人々の言葉の心を知るには、古代の人々が生きた世界を隅々まで想像し、当時の人々の感性に自分を同期させる。それが出来なければ実際に古代の人々の見た風景が見える筈もないのだ。

では古代ではなく「現在」を見る時、我々はどうすればいいのだろうか。ラーナーの創作にそのヒントが有るような気がした。彼の物語を媒介して、我々は目の前に広がる現実に、フィクションやノンフィクションという垣根を超え、豊穣な世界が広がっていることを知ることができる。我々は知らず知らずのうちに現実を自らの感性によってキュレーションしながら生きている。目の前の現実をどう捉え、選び、そこに物語を感じるかどうかは全て我々に委ねられているのだ。


ニューヨークにはいつから住んでいますか?
5年前に引っ越してきたんだ。その前にも住んだことがあるけれど。街は金融のせいで随分めちゃくちゃになっているけど、それでもすごく気に入っているよ。僕が一番大事にしている、文化のエネルギーのようなもの、その殆どがまだ現在も生きて存在しているから。

どの地区に住んでいますか? 街の中でお気に入りの場所はありますか?
ブルックリンに住んでいるよ。好きな場所はブルックリン・ブリッジ。それを渡る時が特にね。

毎日どうやって仕事を始めますか?
ここ最近は小さな子供達が現場責任者になってしまってね。今は毎日が全く予測不可能な状態だよ。

詩人や小説になりたいと思ったのはいつ頃ですか? きっかけは?
詩人や小説家になりたいかどうかは今現在もわからない気がする。

同業者の詩人や小説家の友達とは交流しますか?
もちろん。詩人の方が多いかな。自分がいるコミュニティの中心はそちらの方にあるから。

他の作家の本を読んだりしますか?
色々な本、ありとあらゆるジャンルの本を読むよ。

『10:04』についてお聞きします。作品の冒頭、小説家である主人公は出版社のエージェントに「大勢の読者に読んでもらうチャンスを意識して、どんな人に読んでもらいたいかを考え、しっかり筋書きを練り込んで、主人公が劇的に変貌していく物語を書きなさい」とアドバイスを受けます。作中の主人公がそれに結局従わないのと同様、この作品を書いたあなたの作品『10:04』自体にも、短編小説の抜粋や主人公が子供と一緒に書いた本などといった複数のテキストが中に埋め込まれていて、構造的なプロットがありません。フィクションによくあるドラマティックな展開や筋書きがなく、どちらかというとテクスチャーの連なりのような作品になっています。何を考えながら作品を書いていたのでしょうか?
この作品ではまず文章が起こす基本的な奇跡を思い出してもらいたかった。タイムトラベルの技術を。読者がどんな時に読んでいようと、現在の時制で「YOU」という呼び掛けができるという事実をね。作品を書いている時は特定の読者を想像したかどうかというよりは、むしろウォルト・ホイットマン的なコミュニケーションのチャネルを一時的に読者との間に開きたいと思っていたんだ。作品の冒頭に登場するエージェントのアドバイスの問題は、読者を量でみていて、性質でみていないことにあると思う。作品の特殊性が大衆の中に埋もれてしまうことを積極的に望んでいるように思えてしまうんだ。

小説にとって重要なのは「筋書き」か「テクスチャー」か、という議論についてですが、1930年代に日本では谷崎潤一郎と芥川龍之介が実は激しい論争していた話なんです。実際にあなたの作品に対する割れた評価をみて、それを思い出しました。
そんなことがあったんだね。それは面白いな。

タイムトラベルといえば映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が作中で頻繁に引用されていますが、作品との関係性をもう少し語ってもらえますか?
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』はタイムトラベル、父親になること、そして芸術の再発明に関する物語だよね。ストーリーの中では良いことも悪いことも同時に起きる。僕の作品も過去の気紛れが現在と未来をどのように動かしてしまうかということを描いているんだ。家族の物語もそうだし、それら に関連することについて書かれた別のフィクションも作品中に登場する。タイトルの『10:04』は(マイケル・J・フォックスが演じる)マーティがタイムトラベルする瞬間の時刻で、クリスチャン・マークレーのビデオコラージュ作品『THE CLOCK』の中に出てくるシーンなんだ。僕は作中でそれらを両方引用しているわけだけど。それに『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の時代でもある1980年代は僕の作品にとっては色々な意味で決定的に重要な時代なんだ。主人公の少年時代であり、その時代はアメリカという帝国が最も勝ち誇っていた瞬間でもあるんだよ。

詩人のウォルト・ホイットマンの名前が頻繁に作品の中に出てきますが、彼の存在はあなたにとってどういう意味があるのでしょうか。アメリカの詩人や散文家(ギンズバーグやケルアック)の系譜の上にこの本が存在しているという意味でしょうか?
ホイットマンとの関係性については、僕の作品自体が僕自身の話す言葉よりも良い説明になっていると思う。

アートに纏わるシーンがあなたの作品にはよく出てきます。例えば、クリスチャン・マークレーの『THE CLOCK』、ジェフ・クーンズの彫刻、ドナルド・ジャッドのインスタレーション、登場人物の中にもアーティストがいます。普段の生活の中でもアーティストと繋がりがあると思うのですが、アートは作家活動にとってどういう影響を与えていますか?
僕はキュレーションをするような形式の小説が本当に面白いと思っているんだ。現実に存在する他のアートを取り入れて吸収したり、アートとの出会いを本質的な形で強く描写するような小説がね。小説は他の芸術を通して得た経験を取り込むことができる一つの芸術様式だと僕は思っている。例えば、プルーストが書いた音楽についての描写を例に挙げるけど、僕は彼が物語の中で書いている音楽の描写の方が、彼が音楽について論じたものよりずっと気に入っているんだ。僕の作品の中でアートが重要なのは、舞台であるニューヨークのアートシーンというのが資本主義の最も退廃的な部分と衝突し、結合し、共謀する舞台になっているからなんだ。それに、アートはそれによってなされる主張と、実際のマーケットでの役割の間に矛盾があるのがとても面白いと思う。アート自身はそれをいつも別個に切り離そうとしているわけだけどね。

資本主義の話が出ましたが、今あなたが住んでいるニューヨークの街は資本主義が生み出した大都市の象徴の様な街ですよね。ウォール街の強大な力、貧困と暴力、そしてあらゆる文化発信地でもある。その巨大な街の現代では、フィクションを娯楽として大衆が積極的に求めていた昔の時代と違って、ノンフィクションであるはずの現実で、フィクションの様な出来事が沢山起きるようになってきたとも言えませんか? 今の時代における物語や詩、あるいは物語を書くことの役割は数十年前、あるいは数百年前に比べて変わったと思いますか?
ニューヨーク自体は恐ろしいまでに金融が極端に行き過ぎているし、そして何でもかんでも画一化しようとする波があちこちにあるしね。しかしそれでも、その強固なシステムにあるヒビの隙間から、本物の文化とエネルギーが生まれてくる場所になっていると思う。現代においても過去においても、物語を語るというのは、「その時」について人間が意味を見付ける一つの手法だと思うんだ。混沌としたカオスを、何か重要な意味を持つものに組み替えるようなね。僕が思うに、多くの作家がジャンルを問わず「今」にフォーカスを当てようとしているのは、フィクションやノンフィクションという枠組みを超えて物語を作り、そして作り直すことの可能性を改めて考えてようとしているからじゃないかな。

作品を書く時、他の作家の過去の作品に対するオマージュのようなものを意識したりしますか? 実際、作品の雰囲気がドストエフスキーの『地下室の手記』に似ていると少し思ったんです。
僕はアンチヒーローが例外なく好き。無慈悲なまでに徹底的に自己批判をして、その過程で真理に辿り着いてしまうようなヒーローがね。僕の最初の作品『LEAVING THE ATOCHA STATION』については特にそうかもしれないけど、ドストエフスキーの『地下室の手記』は僕にとって重要な作品なのは間違いないよ。新しい文学作品はいつも過去の作品との間に起きる議論、あるいは対話のようなものから生まれてくるものだと僕は思う。

あなたにとって「新しい」ものは何ですか?
とても古いもの。それは否応なしに新しくなる。他のものより新しく、フレッシュに感じる。フェティッシュさや奇抜さとは無縁にね。


BEN LERNER 1

10:04 (2014) ©PICADOR USA


BEN LERNER 2

BEN LERNER, 2015 ©MACARTHUR FOUNDATION


SPECIAL THANKS TO DECLAN TAINTOR (PICADOR USA).