そうですね。そこは自宅です。生まれは東京なんですけど、10歳の時からかな、京都に。その後『STREET』を始めて一年後にまた東京に戻って来たんです。最初に自分で撮りにパリに行ったのは1986年くらい。創刊して一年後くらいですね。その翌年に初めてパリコレに行きました。その頃はYOHJI YAMAMOTOとCOMME DES GARÇONSとJEAN PAUL GAULTIERがトップ争いをしていた時期です。
よく見ていますね(笑)。海外で『STREET』を撮っている視点で東京を撮ってみたいなという気持ちがありました。ちょうど『FRUITS』が始まる2~3年前の話ですね。DCブームの頃は本当にもう、COMME DES GARÇONSかYOHJI YAMAMOTOだけ。もちろんお洒落なんですが、同じ格好なので面白くなかった。でもそれが十数年経って、ようやく下火になり、「次の流行は何だろう」ってファッション関係者達が言っていた時期です。しばらくしてDCブームのカウンターとして新しい動きが出初めて、CHRISTOPHER NEMETHとかVIVIENNE WESTWOODとかに若い子達が注目し始めた。後はTRAI VENTIとかBEAUTY:BEASTが出て来たり。街には若い子達の新しいファッションを求めるエネルギーが溢れ出していましたね。ちょうどMARTIN MARGIELAがデビューくらいの頃で、パリでも次世代のファッションが動き出していた頃なんですよね。XULY BETとかHELMUT LANGとかも面白かったですね。ある意味、同時代的にファッションにおけるパンドラの箱が開かれたという感覚です。
パリとは別の仕方で東京のファッションが動き出したわけですね。
そうですね。突然変異的に出てきた子達がいました。『FRUITS』を始めようとしたキッカケは、『STREET』に載っていたこの写真(P137)なんですど、変なものを合わせてるじゃないですか。当時は、黄色い髪の毛というのも見たことが無かった。しかも、スニーカーの色を黄色で合わせちゃったり。こっちの子は、羽織と雪駄で中はジャージ。当時はこんな格好が出来る時代じゃないんですよ。途中から全然平気な時代になったけど、最初に見た時、これよくやるなって思いました(笑)。直前までDCブームですからね。この流れは東京でしかありえないです。その頃、影響力のある子達が5人くらいいました。ファッションはここまで、っていう感覚をその子達がドンドン外していったみたいな感じです。JEAN PAUL GAULTIERが変えていった提案の仕方を、ストリートでやっていたような感じですかね。DCブームの後の停滞期で、熱量みたいなものが溜まっていたので、あっという間に新しいムーヴメントになった。その最初の変化を感じて、これはスゴイことになると思って、大急ぎで撮影を始めて、約半年後には『FRUITS』を創刊しました。街の主役はそういう子達に代わって行きましたね。
ユーザーとの共犯関係が成立しているブランドが幾つかあって。VIVIENNE WESTWOOD、JEAN PAUL GAULTIER、MAISON MARTIN MARGIELAとか。特にJEAN PAUL GAULTIERの時は凄かったですね。物凄い時期が2~3年あったと思います。ショーに集まっている人達は、ゴルチエの服を着て来るということでもなく、自分のファッションを表現できる人達で、今でいうコミュニティみたいな雰囲気がありました。こいつら一体どこからやって来たんだろう、みたいな(笑)。ゴルチエは、ある種のスイッチや、ファッションはここまでだよっていう認識のリミッターをガーンと取ってくれた人ですね。その後は何といってもMARTIN MARGIELA。こっちはまたちょっと違う感じの熱狂でしたね。クチュール系メゾンのファッションの力がまだ強かったパリコレで、カウンター的ファッションなんだけど、ゴルチエや川久保さんともまた違った提案でした。当時は、新しいブランドをやろうと思えば、どうしてもCOMME DES GARÇONSのような雰囲気になっていったと思うんですけど、そこに対して全く新しい提案を仕掛けるというのは、誰も考えられなかったんじゃないかな。熱狂的なファンが集まるスピードも早かったです。
当時、MARTIN MARGIELAのショーを直接観ている方は、かなり珍しいのではないでしょうか。
そうですね。僕も平川武治さんに教えてもらって初めて知ったので。マルタンの最初のショーの翌日に、パリコレ会場で「青木くん、昨日のマルタン観た?」って。観ているはずもないのに意地悪で聞いてくるんですよ(笑)。最初のショーに行っていた日本人は数人しかいなかったはずです。行っていないと答えると「良かったよ、次から行った方が良いよ」って。それで2回目のショーから行きました。当時、日本人のカメラマンもほとんど誰も行ってなかったと思うな。2回目のショーは廃墟みたいな場所で、黒人の子供達が入って来て一緒に出てる、みたいなショーでした。平川さんは「実は、COMME DES GARÇONSのファーストコレクションを観れてなくてずっと悔しかったんだよ。でもMARTIN MARGIELAのファーストコレクションは観れたからこれで良い」って言ってましたね(笑)。
その後、青木さんはMAISON MARTIN MARGIELAの本を作ることになります。どのような経緯があったのでしょうか。