YASUMASA MORIMURA

無限のアイデンティティ。 1/4
ISSUE 1
INTERVIEW TEXT NAOKI KOTAKA
森村泰昌
アーティスト


森村泰昌というアーティストを知っているだろうか? 自らの身体を世界的に有名な絵画や著名人のポートレイト写真の登場人物に置き換え、過去30年に渡りセルフポートレイト写真を撮り続けてきたアーティストだ。ゴッホやモナ・リザ、ヒトラーから毛沢東まで、作品の中の森村を知る人は多いが、作品の外の森村を知る人はある一部の美術関係者や親しい知人を除いてはごくわずかだ。「日本」という本号特集テーマを聞いたとき、真っ先に自分の中で沸き上がってきたのは「日本人のアイデンティティとは何か?」という問いであった。こうして読者の方々に向けて文章を書き進めるのだが、自分も日本人である以上、今回のテーマに取り組む際に他人事ではすまされないような、当事者意識が不思議と沸き上がってきたのである。初対面の席で、半ば強引ともいえる「日本」というテーマを投げ掛けたことで、インタビュー開始時には彼を少々困惑させてしまった。その理由はインタビューの後にわかるのだが、森村泰昌というアーティストは、「日本」というあらゆるステレオタイプな価値観から最も離れた場所で思考を巡らしている人間であったからだ。

昨年、森村がアーティスティック・ディレクターを務めたヨコハマトリエンナーレ2014では、「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」というタイトルにも込められているように、現実社会の表舞台には決して現れることのない、記憶される値打ちがないと判断された、つまりは忘却された価値観を感じ取ることの重要性をメッセージとした。歴史の表舞台に輝かしく生きたヒーローやヒロインをテーマとした森村の作品で問われているのは、予め教えられた歴史を疑い、自らが歴史の当事者となって感じる“実感”から学ぶということだ。「身の回りで起こっている現実に対し、当事者意識を持っているか?」。彼の作品を通した問い掛けは、芸術の領域だけにとどまらず、現代を生きるすべての人への問い掛けでもある。

都内ホテルのラウンジで行った今回のインタビューでは、特に強烈に印象に残る瞬間があった。趣味でたしなむという寿司を握るエピソードについて森村が話し始めると、それまでテーブルの下に隠れていた手が、いきなり現れては流れるような手つきで透明の寿司を目の前に握ってみせた。僕はインタビューをしていることも忘れ、その瞬間にまるで熟練した板前が乗り移ったかのような森村の美しい身体のこなしに見入ってしまった。森村の作品を見るときに常に沸き上がった、似せようとする人物とは全くかけ離れた容姿の森村が、なぜ似てくるのだろうという疑問が、この動きを見てすっかり晴れた。「輪郭線をなぞるのではなく、その対象になった自分をイメージしてみる」という森村の言葉を頼りに、本号を通して考える「日本人のアイデンティティとは何か?」という問いに向き合ってみる。すると見えてきたのは、完成させるべき型を決めずに、想像力を真摯に働かすことの重要性だった。

今現在、日本の置かれている状況というのは、国が危機に立たされたときに皆が同じ考えを持ち、皆が気持ちを一つにして対応しなければいけない。そのようにせき立てられている。物事を冷静に考えることができない状況が生まれ、「日本人のアイデンティティ」という、本来なら色々な意見が交わされるべき価値観を一つの型にはめ込んでしまうという危険性をはらんでいる。身の回りで起こっている現実に対して「何でもアリ」というのは「考えていない」ことの裏返しであり、判断を自らに迫ることを抜きにしては、自由な価値観を得ることはできないだろう。ただし森村が美術を通して訴えているのは、身の回りで起こっている現実に直接加担することではなく、現実を含む、既知の外側の存在を認めることであり、より大きな世界認識を許容できるキャパシティを身に付けることである。森村が美術を通して発する声のように、現代を生きるすべての人たちが自らの声を持つとき、その数だけ無限に存在し得る「日本人のアイデンティティ」の可能性が見えてくるのではないか? 森村泰昌という一人のアーティストの活動軌跡から、その可能性を探っていきたいと思う。


セルフポートレイトの原点

どんな子供時代を過ごされたのかお聞かせください。

自分の作風を見て「子供の頃から目立ちたがりだったのですか?」とよく聞かれるのですが、実は全く逆で、幼い頃は人前で話しをするのが大の苦手でした。クラスでは前から三番目の背丈で、当時は自分より背の高い子供たちにすごく憧れていましたね。運動神経が悪く、団体競技に加わると惨めな目に合うので、それが嫌で家で独りで絵を描いて遊ぶようになりました。


初めてのアート制作体験はいつ、どのようなものだったのでしょうか?

当時は図鑑、特に魚類図鑑を見るのが好きでした。図鑑に登場する色々な魚たちが雄大に海で泳ぐ姿を想像しながら、絵を描いて遊んでいました。出来上がった絵を部屋の壁に飾って鑑賞するんです。思い返すとこのときの独り遊びが僕にとっての初めての個展だったんですね。空想にふけることで、学校でクラスメイトたちと上手く付き合えないでいる現実から逃避していたのだと思います。

僕が高校に入学するのと時を同じくして、世間では学生運動がヒートアップしていきました。周囲の話題についていくことに必死で、僕も本を乱読しましたが、相手を論破することはもちろん、まともな会話すらできませんでした。その時を境に、人の前で話すことが全くできなくなりましたね。その後、芸術大学を卒業して企業に就職しましたが、三日も経たずして辞めてしまいました。仕方なく高校や短大で非常勤講師の仕事をしていたのですが、この職場でも対人恐怖は全く克服できませんでした。教室に入って生徒全員の視線が自分に集まることを想像すると、教室の扉を開けるのが怖くて仕方ありませんでした。正に“登校拒否先生”でしたね。そうこうするうちに30代に入り、対人関係の苦手意識を克服できないとはいえ、生活していく術を見つけなければいけないという状況で、変装した自分の姿を作品の被写体として撮るという、自分でも信じられないような大逆転の発想が降ってきたんです。


対人関係の苦手意識をどのように克服されたのでしょうか?

芸術表現というのは極端なんですよ。他人とのコミニュケーションを図るのに、普通であれば世間話で事足りるのですが、僕はそれが全くできないから、セルフポートレイトという手法を使って代弁する術を見つけました。自分の考えを上手く言葉にできなかったり、そもそも話すことが苦手だと社会から取り残されますよね。生きる上で何より辛いのは無視されることですが、そうして抑圧されてきた社会的弱者が、社会への逆恨みを現実世界に向けてしまうときに犯罪が起こり得ると思うのです。ただし、矛先を芸術というフィクションの世界に向けてみると、結構感動されたりするんです。『肖像・ゴッホ』(1985年)を発表したときは賛否両論がありましたけど、どんな形であれ、社会が初めて自分に振り向いてくれたのだと強く感じました。表現の醍醐味を覚えましたね。この方法だったらこれからも続けていけるなと実感しました。

誰からも振り向いてもらえないのは、自分の存在を必要とされていないということです。けれども存在している、という非常に矛盾した状況にある。周りの人たちの視線を感じることで、自分の社会の中でのポジションを初めて認識することができる。初めから社会の中でポジションを持っている人たちは、ポジションを持てない人たちが煩う、精神不安定な状態を理解することはできないと思いますね。


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セルフポートレイト(モノクロ)/マリリン・モンローとしての私
1996. 45x35cm ゼラチンシルバープリント