YASUMASA MORIMURA

最後のセルフポートレイスト 3/4
ISSUE 1
INTERVIEW TEXT NAOKI KOTAKA
森村泰昌
アーティスト


なぜこれほどまでに自撮りが流行っているのだと思われますか?

現代の風潮については二つ思うことがあります。まず一つは、自分がセルフポートレイトという手法において先駆けていたという自負です。僕がセルフポートレイトの作品を作り始めた1985年頃は、日常生活の中で自分を撮影する機会はほとんどありませんでした。大衆全体が自分の容姿に自信を持てない時代だったのです。当時、僕が撮影に使用していたメイク道具や衣装は一般に全く流通していませんでした。「女優になった私」のシリーズでは、撮影用のファンデーションやアイライナーなどのメイク道具を演劇用の道具屋から、ロングブーツやコルセットなどの衣装はSMショップから購入しました。当時は専門店でしか手に入らなかった道具が、今となっては日用品店で安価で手に入るようになり、スマートフォンやデジタルカメラが普及したことで、撮影環境を問わず誰でも容易に写真を撮れるようになりました。表現の手法が貧しい時代に僕が始めた手法が、現代にこれほどポピュラーな自己表現の手法になるとは思いもよりませんでしたね。

もう一つは、セルフポートレイトという手法の役目が終わろうとしていることの実感です。僕は現代の状況をセルフポートレイトの終焉だと考えています。画面上の自分をどう加工するか? 若者たちは画面上で作り出した別の自分を、インターネット上でどう表現するかに面白味を見い出している。僕の場合は、セルフポートレイトという手法を自分の身体から切り離して考えることはできません。近い将来に科学が劇的に進歩して、身体自体を着替えることができる時代が来るのを容易に想像できる。今日はこんな顔で出掛けようとか、今日は男で出掛けよう、女で出掛けようといった具合に。ただし、僕の場合は自分はこんな容姿ですが、その人間がマリリン・モンローに変身しますというスタンスでやっています。想像の中のマリリン・モンローを自分に乗り移らせていく、その身体に感じるプロセスが自分の充実感としてありますね。ただし画面上の自分を加工するのと同じくらい、自分の身体を容易に変容させることができれば、僕にとってのセルフポートレイトという手法は無意味になってしまう。だから、僕は自分を最後のセルフポートレイスト、むしろ最後のポートレイト・チャレンジャーだと思っています。


身体自体を着替えることができる時代。そんな身体の違いが失われた近未来では、何を日本人のアイデンティティとすればよいとお考えでしょうか?

ハーフのモデルさんとか、今の時代に美しいとされる日本人は、純血ではなく色々な血が混ざった人たちだったりしますよね。例えば、昔の日本で尊ばれていた日本男児や大和撫子という美の基準とは別の基準が生まれ、日本の価値観や文化を変え始めています。その一方で、スポーツの世界ではナショナリズムが顕著に出ますよね。あの盛り上がりは何なのだろうかと? 皆が同じ考えを持って気持ちを一つにしないとエネルギーは生まれないという図式が出来上がっている。「絆」「つながり」「一つになる」とか、そんな言葉を使って一つのステレオタイプを作ろうとしている。その状況を踏まえて、芸術がそのステレオタイプに巻き込まれていくのは恐ろしいと思いますね。芸術というのは、100人の芸術家がいたら、100通りの絵があるのがおもしろいわけです。全員が違う価値観を持っていることが良しとされる。僕の好きな言葉で「冷めた熱狂」という言葉があります。自分の内に燃える願いや思いを強く感じつつも、冷めた視点を持つ。皆が盛り上がっている場所から離れることで、その状況が馬鹿馬鹿しく、どうでもよいものに見えてきたりする。その視点を持たないと状況を見誤ってしまう危険があると思います。なので、今回のインタビューのテーマが「日本」と聞いたときに、どうも困ったなと。「日本」という価値観に、冷静な視点を持って話をしなければと思いました。


YASUMASA MORIMURA 3

「LAS MENINAS RENACEN DE NOCE」撮影のためのテスト