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UNOBITUARIES OF HEROES / TESSHU YAMAOKA
いつかどこかで。ヒーローたちの足跡。/山岡鐵舟 1/5
ISSUE 2
TEXT TATSURU UCHIDA
山岡鐵舟(やまおかてっしゅう)(1836~1888)は無刀流開祖の剣客で、明治天皇の侍従をつとめた人である。しばしば「幕末三舟」と呼ばれる。あとの二人は勝海舟と高橋泥舟(たかはしでいしゅう)。徳川幕府が瓦解するときに、後退戦を見事に戦った人たちなのでこの名が贈られた。人間の大きさは不遇のときにわかる。多少の才覚があれば、勢いに乗じて出世することはそれほど難しいことではないが、頽勢のとき、負け戦の「しんがり」を見事につとめることのできる人間は少ない。
山岡鐵舟太郎は小野朝右衛門(おのあさえもん)の子として天保8年(1837年)江戸に生まれた。父が飛騨郡代に任じられたため、鐵太郎も少年期を飛騨高山で過ごした。剣は井上清虎、後に千葉周作に就いて北辰一刀流を学び、書は岩佐一亭に学んだ。父母が相次いで急死した後に江戸に出て、そこで槍術を当時天下無双と謳われた山岡静山(やまおかせいざん)に就いて学んだ。静山は鐵太郎20歳のときに27歳で病没した。鐵太郎は師の遺族に懇請されて、静山の妹を娶り、六百石の旗本である小野家を離籍して、あえて微禄の山岡家に入った。妻となった英子は兄の弟子中抜群の器量である鐵太郎の人物を見込んで、「この人でなければ死ぬ」と言い切ったので、鐵太郎は「そんなら行こう」と快諾したと弟子小倉鉄樹の記した『俺の師匠』にはある。そういう人なのである。物事の損得や当否について判断するとき逡巡がない。人から真率に「頼む」と言われたら、事情にかかわらず「諾」と即答する。それは彼の剣風とも禅機とも通じている。
天龍寺の滴水和尚に印可を受けた後も、山岡は禅家らしいことをしない。ある人が臨済録の提唱を求めたところ、山岡は道場で稽古着に着替えて、ひとしきり烈しい稽古をした後に「どうです、私の臨済録の提唱は」と訊いたと伝えられている。「俺は剣術が好きだから、剣術で禅を語る。坊主の真似をして禅書の講釈なんかせん」と。この逸話も山岡らしい。今ここで、手元にあるもので即座に応じるのである。「必要な支度を調えてから」ということをしない。
それができるのは、山岡が本当に必要なもの以外を身の回りに置かない人だったからだ。必要なのは剣と禅だけである。あとのものは要らない。形あるものは何も要らない。だから、剣を以て一流を立てるときに「無刀流」を名乗ったのである。
人間が生きるために要るのは「もの」ではない。知識でも技能でも情報でも道具でもない。風儀である。作法である。必要なものを必要なときに「はい」と取り出すことのできる力である。それができるのは、普段から、自分の周りにある人物や事物について、それが「いざというとき」にどういう役に立つのか、その潜在可能性について徹底的に考え抜いていなければならない。
「ブリコルール」というのはレヴィ=ストロースの術語だが、フランス語で「日曜大工」「便利屋」のことである。その辺にあるものを使って、必要なものを「はい」と作ってみせる人のことだ。偶然出先で怪我人に出会った外科医が焼酎で消毒し、ホッチキスで傷口を止め、かまぼこ板で副木を作るようなものである。「あれがないから、できない」という言い訳ができない状況で人は「ブリコルール」的に生きなければならない。その力を山岡は重く見た。
三遊亭圓朝が初めて山岡に会ったとき、一席語ってみたが山岡はつまらなそうに「お前の話は口で話すからだめだ」と評した。その言葉の意味が解けず圓朝は悩み、再び山岡のもとを訪ねて、「座禅をしたい」と言い出した。山岡は「やりなさい」と即答し、そのまま圓朝を二階の一間に押し込めて屏風で囲ってしまった。驚いたのは圓朝の方で、家にも帰れず、高座にも上がれず、自分がどうしてこんな目に遭うことになったのか頭を抱えてしまった。だが、山岡に泣訴しても取り合ってくれない。「ええい、ままよ」と腹を括ったら豁然大悟(かつぜんたいご)した。
この逸話も「思い立ったら、今すぐ、ここで」という山岡鐵舟の禅機をよく伝えている。あれこれ支度をしたり、日時を都合つけたりということを彼は許さない。逆から言えば、誰もが「今すぐ、ここで」なすべきことをなしうるだけの能力も、そのための資源も潜在的には所有しているのだという人間の可能性についての広々とした見方を山岡が持っていたということである。
侠客清水次郎長が山岡の知遇を得たのは明治元年のことである。榎本武揚とともに品川を脱走して蝦夷に走った軍艦のうち一艘が暴風に遭って清水港に漂着した。追ってきた官軍の兵士と斬り合いになり、乗組員7人が斬り死にした。官軍は死体を海に投げ込んだが、官軍の報復を恐れて誰も手を出さない。次郎長は不憫に思って舟を出して遺骸を回収して手厚く弔った。官軍に逆らう所業なので、当時駿府にいて藩政に参与していた山岡が次郎長を呼び出して糾問した。次郎長は「賊軍か官軍か知りませんけれど、それは生きている間のことで、死んでしまえば同じ仏じゃありませんか」と言い切った。山岡は膝を打って「仏に敵味方はないというその一言が気に入った」と言って後に次郎長が施主となって7人の死者のために法事を営んだときに山岡は求めに応じて墓標に揮毫した。
山岡鐵舟の最も有名な事績は、江戸開城の交渉のために官軍の西郷隆盛の下に赴いた話である。これが勝海舟の指示なのか山岡自身の発案なのかは史書は詳らかにしないが、勝はそれ以前に山岡に面識がなかったので、そのような任務の特使に山岡を指名するということは考えにくい。これは山岡が将軍慶喜の「赤心」を朝廷に伝える任務を自ら進んで志願し、軍事総裁の勝に最終的な許諾を得に行ったという小倉鉄樹説の方に説得力がある。山岡は薩人益満休之助(ますみつきゅうのすけ)ひとりを伴って東海道を上った。六郷川を渡ると官軍の鉄砲隊が警備を固めている。山岡はその中にずんずん進み、大音を上げてこう口上を述べた。
「朝敵徳川慶喜家来山岡鐵太郎大総督府へ通る」。
鉄砲隊長薩摩藩士篠原國幹(しのはらくにもと)は山岡の勢いに威圧されて、そのまま通してしまった。山岡は一気に駿府まで駆け抜けて、西郷隆盛と膝詰めで幕府の敗戦条件についての談判をした。
まことに山岡鐵舟の面目躍如たる逸話である。伝記では篠原が気迫に呑まれて山岡を通したと書いているが、私は少し違う解釈をする。
旗本の山岡鐵舟と官軍の篠原國幹では立場が違う。戦うロジックが違い、ふるまいのコードが違う。だから両者の間に円滑なコミュニケーションが成立するはずがない。けれども、山岡はそこに奇跡的に架橋してみせた。なぜ、それができたのか。
山岡はあえて「朝敵」と名乗ることによって、いったん仮説的に篠原の立場に立ってみた。そして、暗黙のうちにこう伝えたのである。確かにあなたの立場から見たら私は殺すべき相手であろう。あなたの立場からすれば、それは当然だ。だからこそ、徳川家の家臣が決して口にするはずのない「朝敵」を名乗ったのである。私は私の立場を離れて、あなたの立場に立ってものを見た。だから、あなたもまた官軍兵士としての判断をいったん留保して、「目の前にいるこの男の言い分にもあるいは一理あるのかもしれない」という仮説を一時的に採用してはもらえまいか。一度だけでも私の立場に立ってみてくれないか。私は私のコードを破った。あなたはあなたのコードを破ってはくれまいか。篠原に向かって山岡は組織人として課せられたコードを一時的に解除してくれるように求めたのである。私は篠原は「あっけにとられた」のではなく、山岡鐵舟の「赤誠」に彼なりの誠意を以て応じたのだと思う。本当に力のある人間は、自分と対面している人間の最良の人間的資質を引き出すことができるのである。
同じ場面は西郷隆盛との対談でも繰り返される。将軍恭順の意志を聴いた西郷は降伏条件として江戸城明け渡しと武装解除を求め、山岡はこれを受諾する。だが、「徳川慶喜を備前へ預けること」だけは受け容れられぬと突っぱねる。西郷は「朝命である」と重ねて押すが、山岡はこう反問する。「今仮にあなたの主君島津公が誤って朝敵の汚名を受け、官軍が討伐に向かったとき、あなたが私の地位にあったら、朝命だからと言っておめおめ自分の主君を差し出すことができるか。君臣の情としてそれができるか」と。
官軍への恭順と武装解除は戦争の「理」として受け容れる。だが、慶喜備前預けの儀は君臣の「情」によって拒む。理と情はレベルが違うからだ。人間はそのどちらか一方に依拠して生きているわけではない。あるときは理で通し、あるときは情に譲る。その「あわい」にのみ人として生きられる境位がある。山岡はそのことを西郷隆盛にわずかな言葉で伝えた。伝えることができた。「仏に敵味方はない」というのは山岡と次郎長が合意した命題だが、このときも山岡は「敵味方」というような因習的区分が一瞬だけ無効化するような境位を見出したのである。これがおそらくは山岡の禅機なのである。西郷にこの消息がわからないわけがない。結果的に江戸は兵火を免れた。
幕末に山岡鐵舟が清河八郎と組んで組織した浪士隊というものがあった。将軍守護のために京都に上る剣客たちを募ったのである。その一番隊名簿に「内田柳松」という名が残されている。私の高祖父である。千葉周作の北辰一刀流玄武館から浪士隊に応募したのである。同六番隊には近藤勇、土方歳三、沖田総司らの名がある。高祖父は山岡と同流儀であったから、おそらく面識はあったはずである。短期間ではあったが、山岡鐵舟と私の高祖父は生き死にを共にする覚悟をした間柄であったのである。山岡鐵舟の名を見ると「他人のような気がしない」のはそのせいもある。
幕末三舟の書。左から山岡鐵舟、勝海舟、高橋泥舟。
幕末から明治初期の頃の山岡鐵舟。
晩年の頃の山岡鐵舟。
内田樹
武道家、仏文学者、1950年東京生まれ。凱風館 館長、神戸女学院大学名誉教授。主著に『ためらいの倫理学』、『レヴィナスと愛の現象学』、『私家版・ユダヤ文化論』(第6回小林秀雄賞)、『日本辺境論』(2010年新書大賞)など。
BLOG.TATSURU.COM
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