YASUMASA MORIMURA

真似ることで学ぶ 2/4
ISSUE 1
INTERVIEW TEXT NAOKI KOTAKA
森村泰昌
アーティスト


セルフポートレイトの中の自分と現実の自分は別の存在なのでしょうか?

人間とはかくかくしかじかの人だという、静的な存在ではないと思うのです。ありのままの自分を偽りなく写すことが、セルフポートレイトだと思われがちですが、僕の場合はセルフポートレイトの中で自分が相当背伸びをしているんです。現実の自分から一歩踏み込んだところに別の自分を描こうとする。そうしてセルフポートレイトが生まれるのです。作品が生まれると、今度は元の自分が取り残されてしまう。「それではいかん!」と、その作品に見合う自分になろうとする。なので、作品の中の自分は常に現実の自分より一歩先を歩いていますね。


セルフポートレイトは理想の自分に近付くための方法といえるのでしょうか?

役者やミュージシャンに憧れる感覚に近いと思います。同じ洋服をほしいと思ったり、カラオケで同じ歌を歌ったり、少なからず何かを真似することで得られる欲求があると思うんですよ。『まねぶ美術史』(2010年/赤々舎)という僕の本のタイトルにもなっている「まねぶ」という言葉は、「学ぶ」と「真似る」という言葉の語源に当たります。つまり人は憧れの対象を真似ることで、何かを学び取っていくのです。


作品のテーマとなる人物はどのようにして選ぶのでしょうか?

新しい作品を発表した後に決まって尋ねられるのは、「次は誰に取り組むのですか?」という質問です。日々の生活の中で頭に浮かぶアイディアは、僕にとって植物の種のようなものです。どの種から芽が出るかはわからないけれど、とりあえずその種をまいておく。すぐに芽が出る種もあれば、長い間芽の出ない種もある。それを気長に待つのが芸術だと思いますね。

2013年に開かれた資生堂ギャラリーの個展『LAS MENINAS RENACEN DE NOCHE 森村泰昌展ベラスケス頌:侍女たちは夜に甦る』では、スペイン絵画の巨匠、ディエゴ・ベラスケスの作品で『ラス・メニーナス』をテーマにした作品を発表しました。このテーマを最初に構想したのは1990年のことです。1990年に「美術史の娘」というシリーズの中の一作品として、『ラス・メニーナス』に描かれた11人の登場人物のうち、マルガリータ王女のみをテーマとした作品を発表しました。以来、いつかは『ラス・メニーナス』全編を手掛けてみたいとの思いが実った瞬間でした。次回作で取り組むテーマを決めるプロセスというのは、まいてあった種が果実に成長するのを見たり、果実の収穫から学んだことが手掛かりとなって他の芽が出てきたり、そんな自分の思いを観察しながら決めています。

テーマとなる人物を決めるとき、その人物を好きでいないと成立しませんよね? 現実の自分とテーマとなる人物との間には長い距離があり、その距離をどう埋めていくかを考えて実行していくプロセスの中に大きな発見がある。そこで得た発見をどれだけ作品に盛り込めるかにより、作品の出来が決まると思っています。


全く似つかない人物に、どのように自分を似せていくのか、そのプロセスをお聞かせください。

似顔絵というのは対象の輪郭線を描いて似せていく芸術だと思うのです。僕の場合は、似せようとする人物とはかけ離れた容姿を持っているけれど、なぜか似てくる。輪郭線をなぞるのではなく、その対象になった自分をイメージしてみる。子供の頃と変わらずで、空想を通して見える世界があるのです。

僕の日常生活の中の一例ですが、僕はたまに自分で江戸前寿司を握ります。入門書から握り方を学ぶとか、食べ歩きして本職の握った寿司の味を学ぶとか、そういったことは一切しませんでした。『路地庵』という僕の事務所の名前を架空の寿司屋の名前にして、店名を刺繍した割烹着を着る。そして、寿司を握る人の気分をイメージしながら身体をイメージに委ねてみると、不思議とイメージの方が身体に乗り移ってくるのです。

他にも、僕は作品のための音楽を作るためにピアノを演奏します。僕は楽譜を読めませんが、初めてピアノに触れて、鍵盤を叩いて返ってくる音にたいそう感動して、気付くとピアノに没頭していました。興味のおもむくままに色々な鍵盤を叩いてみると、次第に自分が心地良いと思える音の連なりが現れてくる。そのうち、ピアノをたしなむ友人から褒められるようになると、気分はいよいよピアニストの心地になり、自分のスライドショー作品やビデオ作品の発表会に便乗して、アドリブで生演奏を始めました。つまりは、音楽を例にすると、音が先にありきで楽譜というのは後から出てきたものに違いないと思うのです。音があって、その音の鳴りが、音と音との連なりが、心地良いと思う。もう一度聞きたいとか、記憶に残したい思いがあり、楽譜というものが生まれた。僕がピアノに触れるとき、音が生まれてくる現場に立ち会っている感覚を覚えるのです。

この話は、芸術とは何かという重要な問題に関連していくのですが、僕の中での良い芸術の定義は「子供以上大人未満」だと思っています。子供は自分の見たものや感じたことを恥ずかしがらずにアウトプットしますよね。大人になると、社会の規範を理解した上で、アプトプットする内容を考えなければいけない。つまり大人になるためには、子供のときの気持ちをいったん卒業しなければいけないのです。けれども芸術や表現のおもしろさは、子供が大人になりきれていない、その中間地点にあるわけです。例えるなら、それは青春時代のようで、そこに非常に輝かしいものが存在しているのです。大人としての社会への批評精神と、子供の持つ純粋な好奇心、その両方が合わさって生まれた表現を良い芸術だと思うのです。

昔から僕はお手本に習うのが大の苦手でした。絵を描くことだけは好き勝手できたので長続きしたけれども、デッサンという方法を知った途端に絵が下手になりました。芸術を志すときに、ある芸術の型を一生懸命学ぶことは、健全な芸術との向き合い方なのかもしれない。ただし僕の場合は間違いだらけで、お手本通りにできなかった。すると必然的に我流になっていきました。僕が向き合う芸術とは、完成させるべき型がないので、当てもなく手探りで見つけていくものだと思っています。


YASUMASA MORIMURA 2 1

肖像(ゴッホ)

1985. 120x100cm Cプリント


YASUMASA MORIMURA 2 2

ベラスケス頌:選ばれし幽閉者
2013. 78x65cm 発色同時現像方式