J-NERATION / MOTOYUKI DAIFU

未来を創る才能たち。/題府基之
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INTERVIEW TEXT NAOKI KOTAKA
題府基之
PHOTOGRAPHER


愛すべき家族の日常

家族写真という言葉から、あなたならどのようなシーンを思い浮かべるだろうか? 洗面台に放り込まれた食器、脱ぎ捨てられて山積みになった衣服、床を埋め尽くす生活用品、その混沌の中で平然と生活する家族の姿。題府基之の写真集『Project Family』(2013年/Dashwood Books)で描かれる家族の姿を見るとき、一般的な家族写真の概念は吹き飛ばされてしまうだろう。そんな家族を題材に作品を制作し続ける彼にとって、家族とはどのような存在なのか?

題府は5人兄弟の長男として生まれ、数回の引っ越しを経た後に、作品の舞台となる神奈川県郊外の現在の家に移り住んだ。高校時代の進路希望はジュエリーデザインの専門学校。帰宅部ではあったが美術に興味があり、手に職をつけるべくデザインを専攻しようと考えていた。しかし入学直前になり、親から学費を払うことができないと告げられる。仕方なく、専門学校への進学を諦め、その後の一年間をバイトに費やすことになる。「ジュエリーデザイナーになっていたかもしれない」。題府は当時を振り返って笑う。学費や制作費をすべて自己負担しなければならない状況で、職業カメラマンだった父親の機材を当てにして、一年間のバイト生活の後、題府は写真学校の夜間部に進学する。学校の授業ではポートレイト撮影から路上でのスナップ撮影、風景の撮影など、写真表現を一通り経験。海外に一人旅に出掛け、旅行写真にも挑戦した。ありとあらゆるものを被写体としていた題府が、家族を撮り始めるきっかけとなったのは、ある講評会で初めて家族の写真を発表したときだった。題府にとっては自分の家をありのまま撮影したに過ぎなかった写真に、講師やクラスメイトから驚くほどの反応があったのだ。そのとき以来、題府は自分の家族の特異さを意識するようになる。

「いわゆる微笑ましい家族写真と呼べるような写真もたくさん撮っていました」。家族を撮り始めた頃の題府の写真は、いわゆるステレオタイプな家族写真だった。そこで取り組んだのは、家族写真と呼ばれる写真表現のメカニズムを注意深く観察することで、どのような表現がある特定の感覚を写真から呼び起こすかを学ぶことだった。「微笑ましい」「仲の良い」「不幸である」など、家族写真を家族写真たらしめる、あらゆる要素を洗い出しては、ロジカルに一つ一つ取捨選択していくという作業を行った。そうすることで彼はこれまでに見たことのない家族写真を撮ることができると考えたのだ。

「そんなに家族のことを好きではなかったと思う。家も散らかってるし、飯も不味いし、貧乏だし」。
家族との関係性について聞くと題府はこう答えた。写真の中でいくら家族という存在を象徴する要素を消したとしても、ゼロにすることはできない。つまり、家族にファインダーを向ける自分は完全な部外者にはなれない。題府の家族写真から感じる客観的な視線というのは、ロジカルに意図した写真表現に依るところだけではなく、題府が当時抱えていた、家族への不満の表れでもあったのだ。「写真というのは、シャッターを押せば誰にでも撮れてしまうからこそ、何を見せるか、見せないかという絶妙な表現の配分が大事だと思う」。時に家族を題材にすることは、そこで起こっている現実の「日常的な部分」と「非日常的な部分」その両方を、またどちらかを誇張することで、喜怒哀楽を起こそうとする表現の欲求の間で揺れている。題府にとっての家族とは紛れもない日常なのだが、そうとは言い切ることができずに一つ屋根の下に暮らす血のつながった他人として、未だ未知な存在であり続ける。

「母は昼寝をする。父は仕事に出掛ける。弟と妹はよく喧嘩をする。食事は食べかけのまま、洋服は山積みになり、床はゴミ袋と猫のフンで散らかっている。これが僕の愛すべき日常であり、愛すべき日本の家族である」。昨年、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館で開催された「Prix Pictet」ノミネート作家によるグループ展に寄せた題府の言葉からは、愛憎の念が混じりあった家族への素直な思いを読み取ることができる。この「好き」でも「嫌い」でもない気持ちを知るとき、両極端では語りきれない家族という関係性の複雑さに気付かされる。題府基之の家族写真とは、そんな両極端を一手に引き受け入れてくれると同時に、あたかも自明の理のように私たちが漠然と認めている、家族という存在のグロテスクさ(特異さ)を、また日常というグロテスクな(特異な)存在を、ユーモアを交えて気付かせてくれる 。

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