NEW MIND NEW LOOK / SUKEBENINGEN

ハイコンテクストなノームコア。/SUKEBENINGEN 2/4
ISSUE 3
ファッション・モードのメインストリームはテーラーやクチュールのテクニックでイリュージョンをより実現することであり、その努力の先にアートやアカデミックデザインがある(ファッションが真っ当なアートやアカデミックデザインになる)と勘違いしている。しかし、サブカル的な向上心、それらはよりエクストリームなサブカルになるだけで、決してアートやアカデミックデザインにはならない。ルールが違うので。

ファッション雑誌『POPEYE』のシティボーイ等に象徴される「ライフスタイル」や「ノームコア」が今、世の中を席巻していて、もはやモードは風前の灯である。それを憂うファッションインサイダー達は「ライフスタイルやノームコアが持て囃されるのは保守的で怠慢な態度、再びアヴァンギャルドなモードを歓迎する世論が復活するのが正義であり、それを私たちが啓蒙するのだ」という意気込みであらゆる場所でロビー活動をしている。大半のライフスタイルやノームコアは、確かに彼らのいうように「保守」や「怠慢」の表れなのだが、しかし同時に、最先端もライフスタイルやノームコアの中にある。ライフスタイルやノームコアの中に現れる最先端、その実態はとても抽象的なイデオロギーであり、ライフスタイルやノームコアとニアイコールな形態でアウトプットされるものだ。ライフスタイルやノームコアの様な、でも別の何かなのである。世の中には「ライフスタイル・ノームコア」、「モード」そして「ライフスタイル・ノームコアの様な何か」が存在し、制度疲労した「モード」が「ライフスタイル・ノームコアの様な何か」に駆逐されつつある、というのが正しい見方だろう。その「何か」を自分は「ハイコンテクストなノームコア」と取り敢えず便宜上呼んでいる。そしてこれは、マルジェラ以降停滞していたファッションをブレイクスルーさせ、アートやアカデミックデザインにファッションがなり得る良い道筋を初めて持つ方法になると考えている。ポストマルジェラはハイコンテクストノームコアになるだろう。

アートやアカデミックデザインでは既にサンプリングが主流である。サンプリングとは批判性なので、物事をフラット化できる。そしてそこに過度なオリジナル信仰は無い。分かり易くヒップホップを例にとれば「ヒップホップというイデオロギー」こそがエポックメイキングで、表層は既存のデータベース(レコード)にサンプリングやエフェクトを加え、そのイデオロギーを可視化しただけ。しかし、それにも関わらず、同時代に全て自前のオリジナルで作られたものよりも新しく斬新だった訳だ。「イデオロギーだけが新しく、表層は全て既視的なもの」という組み合わせはあり得る。現代アートの表層だけを真似て「名誉アートでございます」といった表明が今までのサブカル的ファッションのやり方であり限界だったが(YVES SAINT LAURENTのモンドリアンルックからCOMME DES GARÇONSなど全て)、現代アート的なイデオロギーでファッションデザインを考え、しかも表層はサンプリングで、というのがハイコンテクストノームコアであり、今実際に水面下で起こっている、ごく一部の人達だけが気付いている現象だ。

「サンプリング正義」である理由は、モードが本来偽物のイデオロギーであり、その偽物のコンテクストを積み上げてきたからだ。本来ならそれらと決別し切断処理をしたい。よって、モード的なものを排除することになる。「モードとは一体何か?」とよく聞かれるが、これは中々定義出来ない。あるファッションデザイナーは「細い襟とラペル、それがモードだ」とかなり大胆な断言をしていた。自分は「アートコンプレックスで、アートを学んでいない人達が考えるアートな服=モード」だと思う。それは間違ったアート観による筋の悪いもので、その偽物のキッチュさから同じ欲望を持つワナビーらのポピュラリティを得ている。

既存の服の中にハイコンテクストノームコアをそのまま実現しているものは無い。でもハイコンテクストノームコアを実現することは可能だ。ハイコンテクストノームコアなエッセンスを持つ服をピックする。アウトドア、ワーク、ミリタリー、ファクトリーブランドなど。ファッションというより、何らかの用途を果たす目的の為に作られた服によく含まれる。イヤらしいデザイナーの自意識がそれらには入っていないから。それらをミックスする。重ねることで本来の役割的な意味が失われ、アノニマス化する。そしてそれらが共有して持っているハイコンテクストノームコアな要素だけが浮かび上がってくる。またそこにデザイナーの服を加えることもあるが、デザイナーの服をより否定するのが目的である。着ない以上に着ることで否定する。デザイナーのイデオロギーやコンセプトを極力無視する、無効化する。プレイヤー権は着る側にある。イデオロギーやコンセプトはそこではもはや相対化した一素材に過ぎない。

ハイコンテクストノームコアについてはストリートが先行していて、モードが後手に回っているのが現状である。それはモードという足枷のせいで徹底的に詰められないからだ。デザイナーがハイコンテクストノームコアを理解していたとしても、最後にモードに落とし込まねばならない。これが原因で、デザイナーは雑誌に載せる自分の私服センスやインタビュー等でエクスキューズするのだ。「でも、自分がモードの中でなら一番ハイコンテクストノームコアだろ?」という形で。出来る範囲内での誠実さの表明で同情を買おうとする。

今現在において、一番ファッションを前衛に推し進めたのはマルタン・マルジェラだというコンセンサスがある。世間的にはアヴァンギャルド=先鋭的という解釈をしている。しかし、自分はアヴァンギャルドをリアルクローズの対義語として扱うことにしている。つまり、先鋭的なアヴァンギャルドもリアルクローズもあり得るし、逆に保守的なアヴァンギャルドやリアルクローズもあり得る。実際の所、そしてマルジェラは、先鋭的なリアルクローズを初めて実現した人だと思う。アヴァンギャルド=先鋭的、と殆どの人は思考停止し、リアルクローズの先鋭などあり得ないと信じ込んでいた。マルジェラの本当の鋭いところは理解せず、マルジェラ以前の(COMME DES GARÇONS的な)アヴァンギャルドの解釈で自分らに都合良く、殆どは表層的に受け取っただけである。それが原因でポストマルジェラ的なアプローチのブランドは現れることは無く、一世代前のギャルソン的なやり方のマイナーチェンジを90年代以降も続けるブランドが後を絶たない。そして、それらは全てシミュラークル化して行き詰まっている。

マルジェラの匿名性というのは方便であったと思う。その試みがあまりにも時代的に早過ぎた為、「匿名性」という分かり易い看板を掲げることで本来のアブストラクトなイデオロギーを飲み込ませたのだ。人は匿名性というパッケージで、実際には別のものを受け取っていた。マルジェラはマルジェラフリークらの中でもかなり解釈が異なると思う。人毎に色々な誤解をされ、受け入れられる。また、そういう誤解を許容する。そうすることでかなり理解者を選ぶハイコンテクストなものの裾野を広げ、商業的に成立させた。

いつもファッションはアートをセットにする。ヴィジュアルイメージやショップディスプレイなど、アートと服を並べ、さも「同じものです」とサブリミナルに印象操作をする。ファッションはアートを必要とするが、アートはファッションを必要としない。ファッションと絡むのはお金絡みの時だけ、ビジネスライクな関係のみ。ハイカルチャー(アート、アカデミックデザイン、建築等)にはアカデミズムはあるが金が無く、ファッションには金はあるがアカデミズムが無い。よってハイカルチャーはファッションから金と引き換えに「ファッションもアカデミックな分野である」と承認してやるのだ。成り上がりジェントリに爵位を売ることで成り立っている。ハイカルチャーの側はきっといつまでもファッションにはこのまま非本質で愚かなままでいてもらいたいのだ。

結局、ファッション世界のマイノリティな日本人が欧米のエスタブリッシュに認められるには二通り、ハイかローか。彼らより上位のハイカルチャーを持ち込んでマウンティングするか、彼らのオリエンタリズムに訴える芸者になるか。ISSEY MIYAKEのメンズのデザイナーが、イギリスの美大にファッション留学している時、「日本のサブカルチャーな要素を入れると面白いようにウケた。簡単に騙せるので、より彼ら好みなクールジャパン・カリカチュアをやり、評価を得ようとする日本人を見て危機感を覚え、すぐ帰国した」というインタビューを読み、正しいと思った。

例えば「ルーブルのモナリザの隣に何を置けば一番貶められるか?」から逆算してもいい。ウォーホルのキャンベル缶が素晴らしいのは、それを一番貶めるからだ。その価値を理解した上で、一番デリカシーの無い方法を用いてエレガントにやる。ヨーロッパからアメリカがアートの覇権を奪ったような方法を日本もファッションで試みるべきだ。そしてそれはハイな方法で。ハイコンテクストノームコアで。


SUKEBENINGEN
ファッションとアートを学ぶ。ツイッターを中心に、インターネット上にてSUKEBENINGENのペンネームでファッション批評をしている。

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