YOSHINORI KONO

甲野善紀
INTERVIEW TEXT YUSUKE KOISHI
YOSHINORI KONO

甲野善紀
武術研究者


武術研究者。1949年(昭和24年)東京生まれ。「人間にとっての自然とは何か」、ということを探求するため、様々な宗教や思想、そして健康法や修行法にまで関心を広げた結果、21歳のとき「人間の運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である」ということを確信する。その確信を自らの身体という現実を通し、これを感情のレベルまで確かなものにしたいということをきっかけに武術の探求を始める。

ファッションは歴史を通して、人間の常識を疑い、新しい常識と慣習を構成してきた営みである。非自明な生き方や人間の可能性を紹介し、世に問い続けることの価値を再考したいと思う。六十歳を過ぎてからもさらに自らの技を進化させ、格闘家、スポーツ選手、作家、アーティストや医療関係者にまでも越境して影響を与え続ける武術研究者。技の探求を通して「人間にとっての自然とは何か」という本質的かつ答えのない問いと長年真摯に向き合ってきたその一人の人間から、創造に対する何か普遍的な考えを言葉として抽出することはできないだろうか。

その生き方と思想は一見すると常識破りに見える。しかし、人間にとってそもそも常識とは何なのか。そして創造とは、生きるとは何か。甲野善紀は技を披露しながら、そういった根源的な問題を改めて再考する可能性に満ちたヒントを我々に与えてくれた。


昔に少し遡ってお話を伺いたいと思います。今の活動にはどのような形で辿り着いたのでしょうか。

子供の頃から人一倍内気でしたから。大人になったら牧畜の仕事をしたいと考えていて、大学では畜産を学ぶことにしたのですが、いざ学んでみるとそこは「牧歌的」といった言葉からはかけ離れた経済優先のとんでもない世界で、これは何かが間違っていると気が重くなりました。話が通じる大学の教授へ相談すると「君の若さでそのことに気が付くとやっていられないだろう。私の歳にもなればタヌキの振りしてやり過ごしていくこともできるんだがね」と、さもおもしろそうに言われました。その頃から「人が生きるとは何か」「人間にとっての自然とは何か」ということについて深く考え始め、様々な宗教書や思想書を読み始めました。


その後はどんな活動をされていたのでしょうか。

そのうちにあらゆる宗教に予言がある一方で、個人の努力を同時に説いているという二重性に気が付きました。このことを議論したくて様々な宗教団体の集会にも顔を出したりしていましたが、宗教家やその信者は、ほぼ全員「運命は信仰と努力で変えられる」と説いています。しかし「努力する気になるかどうかも運命では?」という問いをぶつけたところ、答えられる人間は誰一人出会えなかったですね。私を説き伏せて入信させようと幾人もの人たちが現れ、そして去っていきました。ある宗教団体では、勧誘する信者たち80人くらいに囲まれて、次々と問い掛けられましたが、私からの運命に関する逆の問い掛けによって、考え込み始めた信者の様子を見た幹部から「お考えはよくわかりました、どうぞお帰りください」と丁重に送り出されました。

既存の考えを学ぶうちに、結局自分自身で問いに向き合うという流れになったわけですね。その頃に何か影響を受けた考えや思想はありましたか?

アインシュタインの光量子仮説、光は波であり粒子でもあるという、そんな矛盾した構造が物理的な世界にも存在するということ読んだときに自分の問題意識と重なる気がしました。それはその頃ずっと読んでいた『無門関』という禅の有名な本の中にある「百丈野狐」という話に焦点が合ったからです。人は修行することで「因果の法則に落ちずに済むか、済まないか」ということに関する問答です。こういったものや荘子の思想に触れるうち、21歳のとき「人間の運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である」という二重性に揺るぎのない確信を覚えるようになりました。しかし、その確信を頭だけではなく感情レベルでも納得したいと思い、昔の武術について研究してみると、「無敵の境地の達人」の話などが出てきます。もはや斬られることはないと悟り太刀を捨てたといった剣客の話などです。そういう世界を知ると、これは自分自身の身体を通して実感するしかないと思いました。なぜなら「運命が完璧に決まっている」と言ってみたところで、現実には誰かが襲いかかってくるという状況では身体が思わず何とかしようと反応してしまう。そこでこの武の世界に身を置いて自分の有り様を見つめようと、まず合気道を学ぶことにしました。


合気道や剣術などをはじめとした様々な武道を学んだ結果、その場から離れて自らの道場を開く流れになったと聞いています。日本の伝統といわれる武道に何か満足ができなかったことがあったのでしょうか。

現在広く普及している武道に対し「ここで教えられている稽古を忠実に続けても、昔の達人の技と境地は、この稽古法の延長線上にはないな」と確信したのです。例えば、武道は元々敵対する者を制するはずの技術であるのに、合気道などは高段者が弟子に自分の技が掛かりやすいように攻めてくるよう要求する傾向が一般的です。このような人たちは、本来ルールのない非常事態に対応するものであるべきはずの武術とは、かけ離れている状態で満足していくことは自明です。さらに権威のある指導者の大半が「熱心な弟子がいい弟子だ」という建前の裏に、「熱心で上達しないのがいい弟子だ」という本音を隠し持っていることにも気付きました。自分の権威を脅かさない人間、その権威をますます増強する人間ほど、その人にとってありがたいものはありませんからね。身体を通して、固定観念や常識から人を解放するものだと思っていた武道が、むしろその既存の固定観念を増強していることに気付いてしまったのです。


そういった権威に対する構造はあらゆる領域であるような気がします。

特に長い歴史と伝統があるものほど、人はなかなか疑いを持ちませんから。伝統として確立したものの背後によく潜む悪い傾向は、誰かが作った道の上でせっせと修行をしていれば何とかなるだろうという「待ちぼうけの精神」がそこに生まれてしまうのです。明らかに誰か他の人間が作っている人為的なものなのに、あたかもそれが元々自然なものであったかのように思ってしまう。そして、与えられた道の上で単に稽古を繰り返すことでますます正しいかどうかさえわからない、既存の権威を増強する方向に進んでしまう。日本の伝統といわれる武道の多くがそうですが、実態は明治期に一般の人が扱えるように簡略化したり、大衆化するためにレベルを落としたものが多いのです。これは前衛的な世界が一般化する過程でレベルの低いところで生まれた様々な観念が常識化してしまい、本来のものとは似ても似つかない形で広まってしまうのと一緒です。伝統伝統と皆が言いますが、こうやって捏造された伝統が背後にあるのです。


古武術にはそういったものに囚われない、自由な構造があったのでしょうか。

いわゆる古武術には古武術で様々な問題もありますが、私は古伝の武術を研究しつつ自らの感覚でそれを体現しようとしているため、厳密に言えば創作武術家というところでしょう。しかし、武道ではなく武術という言葉にこだわるのは、極めて限定的でありながら、こちらも成り立ってあちらも成り立つ、敏感であると同時に鈍感である、といったような矛盾を矛盾のまま矛盾なく扱うことができるからです。これは人間にとって切実な問題を最も端的に取り扱うことともつながります。こういったわけのわからないものを禅問答だという人もいますが、実際に武術を稽古していれば、この世界はそうした言葉の上では矛盾した表現でしか表せないということが、とてもよくわかります。


技を研究する過程でどういった発見があったのでしょうか。

私が探求している身体の動きや技は、かつては確かにあって、今は失われてしまったのではないかと思われるものです。最近特に感じるのは、人間は二足で直立しているため、転倒することを非常に恐れているということに実は大きなヒントがあるのです。それは何かというと、手を出すにも常に倒れないよう身体が用心をして、念入りに確認をとる手続きを課しているからです。ですから効率のいい動きを実現させるには、身体の中で無意識にブレーキとなっている姿勢維持のための手続きを簡略化させることが必要です。子供の頃から染み付いてしまっている身体の固定観念や癖から解放されなければ不可能な技がたくさんあります。私自身、20代からずっと研究してきてできなかった動きが、60歳を過ぎてようやくできるようになったものがいくつかあります。それは時間をかけて身体に染み付いた常識が抜けていった結果でもあるようです。例えば、真剣を竹刀よりも早く変化させることができるようになったのも5年前です。これは剣道関係者にとって「そんなことはあり得ないだろう」と実際に見るまでは信じない動きです。


認識のみでなく、身体に染み付いた固定観念から自由になるというのは確かになかなか容易ではないように思えます。

千年から二千年の間に生まれた人類の大きな発明の一つがネジだといわれています。ネジの構造自体は紀元前からずっとあるのですが、ネジを釘として使うこと ができるということに気付くのに人間はどうやら14世紀までかかっている。車だって元々は牛や馬に引かせるものだったのに、車自体を動かすという蒸気機関車の発想が生まれるのには意外と時間がかかっているのです。人間はなかなかすぐにはそこにある可能な世界に気が付きません。また、人は器用すぎると不便でも用が足りてしまって、こういった新しいものを作り出すこと自体思い付かなかったりするのですけどね。


すぐそこにある可能な創造というのは非常に興味深い視点だと思います。自由な思考と感性が必要ですね。

世間では苦しいことを我慢して努力することがより尊いことのような風潮があります。その逆に好きで楽しく夢中になっているのは楽をしているという考えが。しかし、実際はライト兄弟が飛行機を作ったような情熱で夢中にならなければ、人は真に創造的なものはできないでしょう。現代は「がんばれば夢が叶う」といったような安直で聞こえはいいが、真実や本質からはほど遠い言葉が蔓延っています。しかし実際のところは「待ちぼうけの精神」で努力しても世の中で成功するのは一握りですから、こうしたキャッチフレーズは詐欺的な言葉にすらなりえます。最近メディアでは表現規制が厳しくなっているようですが、こういった言葉こそ表現規制の対象にした方がいいのではないですか。そんな言葉よりも、現代社会は混沌としているということ、厳しい現実が今そこにあるということを子供たちに正直に教えて、そこから創造性を立ち上げなければいけないと思います。


今後どういった人たちが世界を作っていくと思いますか。

本来、我々人間には努力のための努力をしている時間もありません。そして厳しい現実から目を逸らす逃げ場として、答えのある問題ばかりに向き合っても何の解決にもなりません。そもそも世の中で問われている問いの多くが、実際のところはナンセンスなものが多いですから、もっと迫力を持ってそれがナンセンスだといい、本質的な問題に取り組むことのできる人たちがもっと出てきてほしいですね。幕末の武士、長岡藩士の河井継之助の言葉で「天下になくてはならぬ人になるか、あってはならぬ人になれ」というものがあります。そういった人々がたくさん出てくれば世界はもっとおもしろくなってくるのではないですか。


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