NEXT DECADE / HIROFUMI KURINO

全ての夢の家庭には心痛がある : IN EVERY DREAM HOME A HEARTACHE/栗野宏文 2/5
ISSUE 5
Ⅰ. IN EVERY DREAM HOME A HEARTACHE(2017年2月1日)

イン・エヴリー・ドリーム~』は沈鬱なうたである。「全ての夢の家庭には心痛がある」とタイトルのままのフレーズをうたい出すのはブライアン・フェリー。ロキシー・ミュージックのセカンド・アルバム(1973年)A面最後の曲だ。

歌詞は男の独白となっているが、彼はそれなりに裕福で、洒落た家に住み庭にはプールもある。プールに浮かんでいるのは男のパートナー……だがそれは通信販売で購入したビニール製の人形。瀟洒な暮らしをしている男だがダッチワイフと生活を共にしている。うたの最後の方のフレーズで「俺は君に息を吹き込んだ(BLEW UP YOUR BODY)しかし君は俺の心を破壊した(BLEW MY MIND)」とBLOWという単語が異なる意味合いで使われている。

このうたは物質主義的な暮らしへのシニカルな哀歌であり、発表されてから44年が経ったが未だに色褪せない“名作”とも言え、そして今こそリアルに感じる作品だ。

歴代大統領の中でも最も物質主義的で“反知性主義”の代表のようなT氏の就任式から二週間も経っていないアメリカでこの歌が流れてきた瞬間の感触はどうだ。それはファッション・ショウのファースト・ルックと一緒に登場した。

間違い無く今回のNYメンズ・ファッション・ウィークの目玉であるRAF SIMONSのショウの冒頭だ。

ラフが招待デザイナーとなった背景は明らかにポリティカルである。彼がCALVIN KLEIN(以下CK)のチーフ・クリエイティヴ・オフィサーに就任したことへの“お祝い”のようなものだろう。そもそもラフをCKへと誘導したこと自体がポリティクスである。20世紀後半ラグジュアリー・ファッションのビジネス・モデルである“ブランドのリヴァイヴァルと新キャスティング”という手法はアメリカに飛び火した。仕掛けたのはA.W.と言われているが事実だろう。これでNYファッションの磁力が少々増量されるのだ。

シリアスでリアルでインテリ、そして少々頑固……。正にベルギー人らしいキャラクターの持ち主であるラフがこのオファーを受けた背後にはJIL SANDERやDIORといった極めて欧州的なメゾンでの仕事に疲れや限界も感じ、自分が愛するモダン・アートのメッカであるNYで仕事できるという魅力があったからに違いない。ラフは裕福で知的な友人Cのためにキュレーターのようなこともやっている。そのアメリカで“モダン派”の筆頭であったと言えるCKに関わることはラフの夢を叶えられるリアルな選択だ。

だが、そこには“超保守派の大統領が誕生する”という大番狂わせがあった。ラフとT氏の価値観は真逆だ。ラフはメッセージTシャツにステートメントを込めて送り出した。

「どうやったらこの悪夢から脱出できるのだろう?」というフレーズは数段の横書きに配置されているが、その配置とバランスは星条旗を想起させる:見事な暗喩ではないか。他にもお馴染みの「I LOVE NY」のようなロゴ入りニットがあるのだが、それを単体としてでは無く、他の文字入りTシャツと組み合わせると「XXXキミを愛している」と読める。そんな知的な遊びに満ちたコレクションはロゴ(メッセージ)入りのガムテープの使用によって完成させられている。コートやジャケットの上から巻かれたガムテープはそれ自体“商品”である。厳密に言うと、コレクション中の一アイテムであるパンツを発注すると付いてくる“オマケ”のようなもの。かつてマルジェラもやったこの“ガムテープ遊び”はラフに引き継がれた。コレクションに満ちるトラッド感覚とパンク感覚の融合はラフの真骨頂である。

この2017-18年秋冬のRAF SIMONSコレクションはガゴシアン・ギャラリーを会場としたが、場所選び、メッセージの遊びや皮肉、そして冒頭に紹介した「全ての夢の家庭には心痛がある」というロキシー・ミュージックの曲の使用によって“コンプリート”なものとなった。

NYというステージにラフは知性を持ち込んだのだ。

ところでマンハッタン島内と近年人気のブルックリン地域との様々な“温度差”は非常に気になる。「イスラム恐怖症派と戦おう」「人種差別を乗り越え多様性を守ろう」「女性差別を許さない」といったポスターはブルックリンでは当たり前のように貼られ、マンハッタン島ではなかなか見かけない。我々が“NYファッション・シーン”だと思っている世界がマンハッタン島限定だとしたら? ファッション消費の大幅な後退・停滞に対し、ファッションが持つチカラで対抗するのではなく、相変わらず値引きやセレブリティ・ハイプで盛り返そwうとする彼の地の業界の無策ぶりに日本の現実が透けて見える気もする。


Ⅱ. UTOPIA(2017年1月25日)

アントワープのモード美術館(以下MOMU)はオープニングを含め何度も訪れているが、1月に観た展示『リック・ウーターズと個人的ユートピア』には予想外の感動を受けた。

僕には未知の画家であるリック・ウーターズは経済・社会的な成功には至らない生涯を送ったポスト印象派の画家だが、彼が愛した妻ネルとの暮らしとその息吹を、主にアントワープのファッション・デザイナーの服と共にプレゼンテーションした本展覧会は“ものをつくることと暮すことの意味”や“ただシンプルに生きることの素晴らしさ”を伝えてくれた。

リック・ウーターズの部屋の“気分”の再現には彼が生きた時代に存在しなかったスウェットやポスターがさり気なく配置され、リアルを感じさせる。清貧という例えが似合いそうな彼と妻との暮らしぶりだが、そこには“実感”があり“手触り”がある。窓から見える穏やかな景色や、よく乾いてひなたの香りを感じられる洗濯物がある。

「ただ普通にそこにあることの幸せ……」。それは今最もラグジュアリーな在り方かも知れない。青臭い夢物語と一蹴されてしまうかも知れないが、今の時代だからこそ、この理想・ユートピア感が“リアル”に感じられるのだ。

展示を演出したのはボブ・ヴェルヘルスト。マルタン・マルジェラの最初のショウから行動を共にし、やがて優秀なディスプレイ・アーティスト、シネオグラファーとして認められアントワープやベルギーのみならず、パリ・サントノーレのエルメス本店のウィンドウも手掛けるようになった逸材である。1994年にユナイテッドアローズでマルジェラのプレゼンテーションを一緒に手掛けたのもボブだった。

ベルギー人は優しい。アントワープとはボブのような優しいひとたちが静かに暮す“村”である。リック・ウーターズが夢見た“芸術家村”にボブやキュレーターが惹かれるのは当然だ、特に今のような時代にあっては……。

ヘンリー・デイヴィッド・ソローの書物『ウォールデン 森の生活(1854年)』からもインスパイアされた本展示を考えるとき、その“自給自足生活”の哲学のみならず、ソローが奴隷制度とメキシコ戦争に抗議するため人頭税の支払いを拒否して投獄されたことや、その“市民的不服従”がマハトマ・ガンディーのインド独立運動やキング牧師の市民権運動等に思想的影響を与えたとされることが、直近の米国市民の動きともオーヴァーラップする。

MOMUのみならず、あらゆる美術館の企画にはその時代の社会潮流からの影響や先取性を感じるが、とりわけ資本主義下の消費システムとその呪縛から逃れ得ない“ファッション”の閉塞的現状、そして未来を考えること(或いは、その未来が考え難いこと)をこの展示から意識せずにはいられなかった。


Ⅲ. PARADE(2017年2月10日)

2月初旬の10日間の間に二度NYを訪れた。(一旦、欧州に逃れたがまた北米に戻った)理由はラフ・シモンズだ。

1995年、ラフがマレのギャラリーでパリ初の展示会を開いたときからの付き合いである2が、あのとき無名の新人デザイナーに会おうと思った理由はデヴィッド・ボウイだ。ラフからのインヴィテーションは7インチEPのサイズとバランスで、ヴィジュアルはボウイのALADDIN SANE(アラジン・セイン)のジャケットからの引用。ちなみにALADDIN SANEはアナグラムすればA LADD INSANEとなり“狂った若者”と解釈できる。ダブル・ミーニングはボウイの本質だ。因みに本アルバムのデザインはフィービー・ファイロの両親の作品(1973年)であり、彼らは娘が30年後にCELINEというブランドのディレクターになるとは思いもしなかったろう……。ラフ・シモンズにとってデヴィッド・ボウイは永遠のヒーローでありインスピレーション・ソースである。ボウイは「自分は他人や世界を映し出す鏡のようなものだ」と公言していたが、そこにもラフの時代感覚との共時性を感じる。

2月1日のラフ自身のショウの項でも書いたが、今回のNYファッション・ウィークとRAF SIMONSという組み合わせにはCFDAの戦略的な背景・意図があるのは明白で、現にもしラフや彼のCKのショウが無かったら僕はNYには行かなかったから、正しく戦略に嵌ったことになる。

2月1日のラフのショウは20時だったので僕は同日に羽田を飛び立った(時差が功を奏する)が、10日のCKは朝の10時開始で、前夜パリから移動した僕はショウ終了後、同日の帰国便で直ぐ羽田に向かった。

CKのショウ会場はCK本部のビルのグラウンド・フロア。会場の天井からはラフが敬愛するスターリング・ルビーの作品が数多く垂れ下がっていて、プレスキットには「スターリング・ルビーが感じた“アメリカ”の世界」と記してある。スターリング・ルビーの感性を通して具体化されたアメリカへのLOVE&HATE、それはラフ本人も感じている事だろう。

90年代後半、初めて“同世代のデザイナー”としてシーンに登場したラフに世界の若者は興奮し、それは今も継続しているがそのラフも間もなく50代を迎える。

そしてラフは“アメリカ二大ブランド”の一つであるCKのクリエイティヴ担当重役に就任した。

ショウが始まり、ファースト・ルックと共に聴こえて来た曲を聴いて僕はほほ笑んだ。『THIS IS NOT AMERICA』とボウイの曲をカヴァーしたのはソフィア・アン・カルーソ。囁くように歌うが、それは逆に曲の持つ“強さ”を感じさせる。歌詞にはアメリカへの夢と失望が入り混じっていて、AMERICAとMIRACLEという二つの単語は注意深く聴いていないと同じものに聴こえる。「これはアメリカではない/これはミラクルではない……」。これも“哀歌”と言える。時代感覚に優れたボウイは当時パット・メセニーという意外な相手と組み、透明感のあるサウンドを完成させた(1985年)。それは2017年、雪景色のNYに心地良く、そして寂しく響く“うた”となった。

服はユニフォームやウェスタン、スポーツ・ウェア、バイカーズ・ブルゾン、そして品の良いスーツやジャケットはグレイ、CKの色であり全体を通して“アメリカン・ウェア”の発掘と再定義と見えた。

プレス・リリースを見てみるとPARADEというタイトルのコレクションであることが分かる。

およそアメリカという国は常にパレードしてきたが、パレードの中でジョン・フィッツジェラルド・ケネディの命も失われた。今回、ラフと共にCKをディレクションしたピーター・ミュラーが具現化したのは、個々の服のメッセージ以上に“並んだ時に発するオーラ”のヴィジュアライズだったと思える。あらゆる人種から選ばれたモデル達が着る新生CKはシンプル・クリーン・クールだがヒューマンだ。ラフとピーターの登用は正解だったと断言できる。


Ⅳ. FUTURE OF FASHION

本稿に限らず「ファッションの未来について語ってほしい、書いてほしい」という依頼が増えている。それだけ、このサブジェクトがヴィヴィッドなものであり重要だからだろう。

僕がファッション業界に携わって今年で40年。様々な才能に出会い、幾多の成功と困難を見てきた。“常勝”など、この世には有り得ず、良い時も悪い時もあったが、現在ファッション界が直面している問題は“本質的”な危機であると言わざるを得ない。“ファッションという概念そのものが崩壊している”からだ。その原因は業界そのものにある。

僕はそれを“ファッション・システムがファッションを殺している”状況であると明言してきた。定価販売時期の短さ、創造性より話題性が優先されること、送り手と受け手の立場の逆転ETC……。これらがファッションの衰弱を加速している。そしてNYコレクションは“SEE NOW, BUY NOW”の先駆けとなり代表となるのだ、と自負しているようなのだが、そもそも“早く買える・見たものが直ぐに入手できる”を「善」とすること自体が価値観の崩落を招いていないか? なにもかもスピードアップされることに、ひとは充実や幸福を感じられるのか? あなたがもしこころからファッションを愛しているのなら、そこで立ち止まって考えてみよう、そして前を向いて歩き出そう。「BOYS KEEP SWINGING♪」。


栗野宏文
ユナイテッドアローズ上級顧問、クリエイティヴディレクションを担当する。数々のファッション誌を中心に執筆活動も行う。
UNITED-ARROWS.CO.JP