SHOHEI SHIGEMATSU OMA NEW YORK


FREEーNEW YORK CITY
ISSUE 8
PHOTOGRAPHY SEAN VEGEZZI
INTERVIEW TEXT NAOKI KOTAKA
建築家は、社会に変化をもたらす原動力となれるのか?

「I’M DOOMED TO LIVE WITH CRISIS(私の人生は、危機的状況と常に運命付けられてきました)」。この言葉は、重松のレクチャーの冒頭でよく使われる示唆に富んだジョークだ。あっけらかんと語られるものだから、大抵の聴衆は深く考えずに、笑って聞き流してしまう。しかし、レクチャーが進むにつれて、このジョークこそが彼の思考や行動を本質的に表してることに驚かされるのだ。

建築家の重松象平は、レム・コールハースによって設立された建築設計事務所OMAのパートナーであり、ニューヨーク事務所の代表を勤める、いわば“世界的な建築家”である。しかし、その歩みは決して順風満帆ではなかった。1973年(第一次オイルショック)生まれ、1992年(バブル崩壊)大学入学、そして2008年(リーマン・ショック)OMAパートナー就任……。文字通り、不況と共に人生を歩んできた重松は、建築家となってからも幾多の危機的状況に翻弄され続けてきた。初めて任されたニューヨークのホイットニー美術館の増築案は、クライアントからの承認が下りていたにも関わらず、アメリカ同時多発テロ事件を受けてキャンセルとなった。それから中国や中東での大規模プロジェクトに関わった後、ニューヨークに拠点を移してパートナーに就任するが、その矢先にリーマン・ショックが起こり、事務所の主要プロジェクトは一気にペンディングに追い込まれた。

翻弄され続けるうちに、やがて重松は危機的状況を変化の兆候としてポジティヴに捉えてみるようになった。不況や災害といった危機的状況下では本当にネガティヴなことしか起こっていないのか、考えてみることにしたのだ。そこで教鞭を執っていたハーバード大学で、不況下の建築や都市についてリサーチを行なった。すると、不況下にこそ建築のマニフェストが活発に執筆されていたことが分かった。また建築以外の分野でも、インターネットや携帯電話などの歴史的発明がが生まれていた。つまり危機的状況というのは、社会の変化を観察し、どんな再定義が必要とされているかを見極めるための時間だということを、彼は理解したのである。

こうした気付きを得て、社会の変化に翻弄されない知性と体力、そして変化の本質を捉える洞察力を重松は手に入れた。社会の変化を察知し、リサーチへと昇華させ、来るべき時のために知を蓄えた。こうした意識改革が功を奏したのか、彼の周りにも変化が起き始めた。OMA初のマンハッタンでの建築作品「121 EAST 22ND STREET」の高層レジデンス、蔡國強のアトリエ、METコスチューム・インスティテュートのガラと展覧会、タリン・サイモンとのアートインスタレーションなど、プロジェクトが次々と動き始めたのである。変化に受動的に翻弄されるのではなく、主体的に参加すること。つまり、自分自身が変化を創り出す原動力になる、そう決めて動き始めたことの成果だった。
本特集の撮影は、完成間近の「121 EAST 22ND STREET」の現場で始まった。下水道やトンネルなど“マンハッタンの裏側”を撮影した写真作品で知られる、アーティストのショーン・ヴァジェッツィに撮影を依頼した。撮影後、掲載する写真についてやり取りしていると、彼がこんなことを言った。「ショー(=象平)が創るスペースは魅力的だ。ニューヨークの巨大な都市のエネルギーと繋がりながらも、中に入ると不思議と心を鎮めてくれるんだ」。彼の言葉は、撮影日前日に行なったインタビューで、私が受けた重松の印象と一致するものだった。それは、ニューヨークという大都市の目紛しい変化と関わり合うために旺盛に行動しながらも、冷静な思考をもって、どんなポジティヴな変化を社会にもたらすことが出来るのかを真摯に問い続ける建築家の姿だった。

本インタビューでは、重松が新しいプロジェクトを抱える東京についても触れた。目下、オリンピックに向けて多くの大規模開発が進む東京だが、この変化を彼はどう捉えているのだろうか? そう問い掛けた後で、彼が審査員を務める雑誌『新建築』主催の住宅設計コンペに寄せられた文章を思い出した。「他分野からの積極的な参加と自由な表現を期待しています」。建築コンペなのにも関わらず、建築家以外からのアイディアも募るらしい……。この言葉を読んでハッとした。どんな変化を東京に望むのか? 未来の都市の姿は、建築家の手にだけ委ねられてるのではなく、都市で生活する全ての人に向けられたオープンな問いなのだ。建築を議論のプラットフォームとし、都市の未来について考え続ける彼と、都市とその変化の可能性について共に考えた。


現在、ニューヨークをはじめとするアメリカ全土でプロジェクトを抱えられていますね。こうしたポジティヴな変化は、ご自身の心持ちの変化とも関係しているのでしょうか?

外国に住んでいると他者でいることが楽なんです。前からニューヨークという都市の美しさや力強さは感じていたのに、ここに何かを建てるぞ、という強い意思をずっと持てなかった。それこそが建築家としての私の弱さであり、ニューヨークでの初めの10年間、あまり仕事が取れなかった理由ですね。最近はニューヨークを含むアメリカ全土で仕事が取れるようになり、するとニューヨークを見る目も変わってきたんです。一人のニューヨーカーとして自分もこの都市の変化に貢献したい、そう強く思うようになりました。


20年以上に渡り海外で活動されていますが、ご自身の建築のスタイルや建築家としてのアイデンティティを、日本やアメリカと関連付けて考えたりされますか? それとも国籍によらない、より多文化的なスタイルやアイデンティティが存在するとお考えですか?

私の建築のスタイルは、コールハースをはじめ多くのオランダ人建築家が実践する、プロジェクトの特性を洗い出して、それをデザインの言語として建築に昇華させていくものです。建築家のアイデンティティの表現というより、プロジェクトとクライアントのアイデンティティを表現することに重きを置いていますね。しかし実際は、このスタイルしか知らないから、その妥当性を信じて取り組み続けているだけで、私自身の建築のスタイルも考えていかないと、効率が悪くなってきているのも感じています。私が枠組みを設けないと所員も付いて来れないし、クライアントも仕事を頼み辛い。本来なら順番が逆かもしれないけど、事務所の代表になって10年以上経って、やっと仕事が増えてきた今のタイミングで、自分のアイデンティティについて改めて考え始めています。 それで、自分のアイデンティティが何かを考えてみると、これまでの多様性や国際性を求めて世界中を飛び回るような生活も刺激的でしたが、一方で、グローバル高度市場経済難民なんて自分を揶揄するぐらい、何処にも居場所を見付けられてなかった。けれど最近になって、ニューヨークと東京で新しいプロジェクトに関わる機会に恵まれたことで、ローカルでも通用するアイデンティティが自分に必要なのだと感じるようになりました。ニューヨークに10年も住んでいるのだから、もっとニューヨークを知るべきだし、東京でも重要な都市プロジェクトに関わっているのだから、もっと東京も知るべきだと。これからグローバルに活躍していく人というのは、場所との強い繋がりを持っている人だと思うんです。建築に限ったことではなく、例えば、家族を持つとか、家を買うとか、地元のスポーツチームに所属するとか何でもいいのですが、様々なレベルで都市と繋がりを持つことが重要だと思います。今までは、それを省くことで築いてきたアイデンティティがあったけど、これからはもう通用しないなと。


2000年代のアメリカでは、経済危機、政権交代、テロなど、社会を大きく揺るがす出来事が多々ありましたが、建築家として個人として、何か影響は受けましたか?

こうした出来事を経験して、また、ある部分では自分自身も振り回されたことが、社会の変化に目を向けたきっかけでした。それからハーバード大学で「災害下の都市と建築(POST-CRISIS URBANISM AND ARCHITECTURE)」というリサーチを学生達と立ち上げました。不況のような経済災害や台風などの自然災害、そうした危機的状況の後で人間の心理や都市がどう変化していくかをリサーチしたんです。団塊の世代の私の親は、上向きの経済しか経験してこなかったけど、団塊ジュニア世代の私は、ずっと下向きの経済の中で生きてきた。だから近代化が終わりかけて、人口も減って、経済も落ち込んできている国や都市と、ある部分ではずっと向き合ってきたんですね。それまで溢れんばかりにあった建築の需要が、突如失われた。すると、建築家というのは建てることが前提としてあるので、落ち込んでしまう。成長という強いベクトルを失った時に建築家は何を為すべきか。それを見極めようとしました。それでリサーチを進めていくと、危機的状況下では、社会の様々な部分が再定義され、新しい価値観が生まれるなど、ポジティヴな変化も起こっていることが分かった。だから、そういう時にこそ建築家は、建てること以外の役割を社会の仕組みの中で再定義していく必要があるのだと学びましたね。例えば、不況下のアメリカでは建築家に代わってランドスケープデザイナーが力を持ち始めたんです。彼らはデペロッパーに頼らず、建物も建てずに、都市の公共空間を低予算でアップグレードしていった。こうした社会の需要の変化からも学ぶことで、自分の建築家としての役割を常にアップデートしていたいと思うのです。


こうしたリサーチプロジェクトは建築作品以上に重松さんの考え方を的確に反映しているようです。そして、個人的な関心を建築のリサーチへと即座にプロジェクト化していく、そのスピード感にも驚かされます。

コールハースが言い続けていることなんですが、建築には二つの欠点があって、一つ目はスピードが遅い、そして二つ目はクライアントありきの仕事なので、自発的なプロジェクトを起こし辛い。その欠点を克服するには、例えば、異なるスピードで機能しているファッションやアートの領域とコラボレートすることで、早いスピードに慣れ、もっとプレイフルにデザインすることなど、建築で得れない体験をしてみる。後は、自分が関心あることをプロジェクト化する方法を見付ける。大学でのリサーチもそれで、自分の関心を学生達とシェアすることで、皆でスペシャリストになろうとしているんです。本来大学というのは、教授が蓄積した知識を伝える場なのかもしれないけど、これだけ早く社会が変化しているのに、例えば、私の知っている図書館の知識を教えたところで、それが10年後に役立つとどうしても思えないんです。それより今起こっている変化について皆で考えて、それが図書館という建築をどう変えていくか、その可能性を探るほうが重要だと思うんです。

これは持論なんですが、建築家のマニフェストが良しとされてきたのは、ロバート・ヴェンチューリの時代で終わったと思うんです。彼はこんなにも複雑化した社会を、マニフェストという一元的な価値では計りきれないと悟ったんですね。じゃあ建築家は何をすべきか。社会を観察して、その変化を伝える人になりましょうと。彼の場合は建築論と建築作品が直結してなかったけど、コールハースはそれが出来た。私もリサーチだけでなく、建築作品を通して社会の変化を伝えていきたいのです。そうしないと、いつまでも前時代的な建築を作り続けなければならないし、それをクライアントの責任にしてしまう。だから、私はマニフェストの代わりに、社会の変化を見つめる観察力とそれを建築化する実行力とをもって、建築に取り組むようにしています。


建築に限らず、幅広い興味をお持ちのようですが、何が好奇心を掻き立てるのでしょうか?

クライアントやコラボレーターと議論する中で、好奇心のスイッチが押されることが多いですね。ファッション、アート、テック、食、宗教……、様々な領域のプロジェクトに関わることで、各領域の第一人者達から生の声が聞けるのは刺激的です。後は、日常的に気になっているサブジェクトを、リサーチとして深掘りしてくうちに、いつの間にか夢中になっていることもあります。「食」というサブジェクトも、当時、色々な分野が注目し始めていたり、自分の日常生活とも関わりが深いということで、建築とは関係無いところで漠然と興味を持っていたのですが、ちょうどハーバード大学からリサーチのサブジェクトを考えて欲しいと依頼されたことで、「食からデザインする(ALIMENTARY DESIGN)」というリサーチとして、建築と紐付けて考えることにしました。『THE HARVARD GUIDE TO SHOPPING』(2001年/TASCHEN)という、過去にコールハースが行なった「買い物」と建築を紐付けたリサーチみたく、建築っぽくないサブジェクトを選んだのは、彼からの影響かもしれませんが、「食」なら、国際的流通網というグローバルから、家のキッチンというローカルまで、広範なスケールを扱えるし、近代化によって離れた都市と農地の関係を再考することは、建築的な視点からしても意義深いと思ったんです。こうした、日常的に気になっているサブジェクトから建築を考えることもそうですが、建築のスタイルというか、思考のスタイルを共有していきたいですね。そうすることで、クライアント、コラボレーター、所員、学生など、私個人を超えた多様な好奇心を建築に織り交ぜていけると思うのです。


こうした多様な意見を取り入れる設計方法は、日本で抱えているプロジェクトにも生かされていますか? 虎ノ門エリアの大規模再開発に関わっていらっしゃいますが、このプロジェクトでは何にチャレンジされていますか?

「虎ノ門ヒルズ・ステーションタワー(仮称)」は日本の大手デベロッパー、森ビルがクライアントで、創業者の森稔さんがお亡くなりになった後、新社長に就任した辻慎吾さんが初めて一から関わるコンペでした。新しいリーダーシップが生まれると、新しいチャレンジが始まるもので、彼は、突拍子もない新しさというよりは、これまでの森ビルの考え方を踏襲した新しい都市づくりのヴィジョン、そして森ビルの一事業という枠組みを超えた、東京の都市としての未来像を示したい、そんな想いを持っていました。それを受けて今回のプロジェクトでは、タワー単体のアイデンティティよりも、タワー同士の繋がり方を考えてみましょうと切り出しました。森ビルが得意とする、六本木ヒルズや虎ノ門ヒルズに代表されるような、都心の要所に建てられた独力型の高層タワーの妥当性を、再考してみようと思ったのです。高層タワーが孤立してしまうのを避け、地下鉄や道路などの都市の広域ネットワークは勿論、周辺のパブリックスペースとどう繋がっていけるかを考えました。こうして提案したのは、虎ノ門ヒルズからステーションタワーにオープンエアの橋を渡すことで、従来の地下道に加えて、タワー間を三次元的に繋げること。また通常、セントラルコアの高層タワーの構造を、低層部のみサイドコアにすることで、タワー中央部をパブリックスペースとして開放し、そこに橋から延長した緑化公園を通すこと。さらにソフト面の提案として上層部には、六本木ヒルズにある森美術館とも連動できるような、森ビルが運営するメディアスペースを設置することでした。

都市の大規模再開発プロジェクトでは成功のモデルケースを皆が真似したがる。すると同じような空間があちこちに建てられ、都市空間が均質化されていく。こうした東京の都市空間への批評性が評価されたことが、コンペでの勝利に繋がったのだと思います。東京について思うのは、外観デザインにおいて中国や中東の建築のような奇抜さは必要ないと思うのですが、プログラムが中庸に陥るのが問題だと思うのです。都市空間の均質化をよく食事に例えて説明するのですが、昔は、異なる皿(建物)から異なる料理(プログラム)が食べられていたのに、今は、どの弁当箱(建物)をつついても同じ料理(プログラム)が詰められている。考えてみて下さい。同じおかずを食べ続けたら誰でもうんざりしますよね(笑)?


中庸になってしまう理由としては、議論の場に他文化からの視点が少ないことが挙げられるかもしれません。勿論、日本固有の価値観や美意識も素晴らしいのですが、そこにどうやって多様性を取り入れていくかも考える必要があると思うのです。

西洋的な多様性を取り入れるべきだとは強要出来ないと思うんです。私自身も西洋で20年以上暮らしてきて、表では多様性を謳っていても、裏では人種差別が根強く残っているのを見ていますし、他民族的な多様性だけが答えではないと思うんですよ。しかし、外部との接点が薄い文化というのは、どうしても「洗練」のベクトルに向かっていく。そこからは「発明」や「実験」が生まれにくい。昔の東京って、今ほど都市として洗練されてなかったと思うんですよ。それこそ、ダサい建築も沢山あった(笑)。でも都市としてのエネルギーは今より高かったですよね。だから、失敗や実験を症例するような、そして新しいことを考えた人が賞賛されるような、そんな機運が高まれば良いなと思いますね。

現在、故郷の福岡でもプロジェクトを抱えているのですが、行く度に都市としてのポテンシャルの高さに驚かされます。以前は、東京や大阪を追いかけているという印象だったのですが、最近になって福岡自体のアイデンティティを意識し始めたように感じます。高度経済成長の時代に、日本全体のグランドヴィジョンで地方を都市化していったことで、それぞれの地方都市の固有性が薄れてしまった。だから、これからは福岡にしか、そして九州にしか出来ない、地方単位の都市づくりを考えていく必要があると思います。これは日本だけの問題ではなくて、アメリカでも1990年代まではダウンタウン文化があって、どの街にもダウンタウンを作ったことで都市間の差異が薄れてしまった。やっと最近になって、文化だったり、食だったりを使って、それぞれの都市のアイデンティティが模索され始めています。


「ファエナ・フォーラム」のプロジェクトは、「アート」を取り入れることで、マイアミの都市としてのアイデンティティを打ち出した良い例ですね。

コロンビア大学で教鞭を執っていた時に、世界中のアートイベントについてリサーチしました。というのも、マイアミでプロジェクトを抱えるようになって、「アート・バーゼル」に参加したり、そこに集う人達から話を聞くようになって、アートイベントの地域再生の可能性に興味を持ったからです。1990年代後半から2000年代中盤までは、ビルバオ・グッゲンハイム美術館の成功がきっかけとなって、美術館が地域おこしの起爆剤となってきました。しかし近年では芸術祭やアートフェアがそれに取って代わった。アートイベントは美術館のような建築も必要なく、イベントで地域を活性化するから、低コストかつ費用対効果も大きい。それで地域再生のコンサル会社なども、高い経済効果を餌に、アートのことを何も知らないような行政の人達にアートイベントを売り込み出したんです。それも引き金になって、今世界中でアートイベントが激増しているんですね。そんなリサーチをした後で、「ファエナ・フォーラム」のプロジェクトが舞い込んできました。元々は、ホテルに付随する催事場の設計を依頼されたんですが、折角マイアミに建てるのだから、ここで起こっているアートイベントと繋がりを持てるような建築にしたいと思ったんです。また、アーティストの知人達によると、美術館やギャラリーのホワイトキューブでは出来ない表現があるから、新しいアートの発表の場を求めているとのことでした。それでクライアントに、パフォーマンスアートやメディアアートのための空間を作ることで、周辺のアートイベントとの接点を増やし、ホテルを超えたアイデンティティを発信していきましょうと提案しました。

当時、アートイベント以外でも、マイアミを面白いなと思っていた理由があって、それは、今まではアメリカ経済がニューヨークの金融業界によって牛耳られていると思っていたのですが、調べてみるともっと幅広い経済分布があったんです。サンフランシスコやロサンゼルスのテクノロジー、ヒューストンの石油、後はデンバーの天然資源など。ミレニアル世代なんかは、自然の中での生活を求めてデンバーに移住し始めたりしているんです。それでマイアミは、今ラテンアメリカからの移住地として注目されているんですね。ラテンアメリカは政治も経済も不安定なので、富裕層がどんどんマイアミに移住し始めている。一時期、私も冗談で「ラテンアメリカの首都」とマイアミを呼んでいました。そんな、ラテンアメリカの文化も入ってきていますし、地元の人達の都市づくりへの熱意もあって、以前のリタイア地というイメージを払拭して、今では刺激的な文化都市の一つになったんです。


都市づくりには、建築家、行政、デベロッパーだけならず、そこに住んでいる人達の声や行動も大切ということですね。例えば、ロンドンやニューヨークでは、若いクリエイター達が、地価の安いエリアを開拓していった歴史があります。クリエイティヴな空間の使い方とか、その後の都市開発のトレンドも作り出しましたよね。

現代のアメリカの若者達は、私の世代のようにニューヨークやロサンゼルスに住むという執着がもう無いんですね。高い家賃を払って劣悪な環境に住みながら、あくせく働くなんてナンセンスだから、より良い生活環境があるなら郊外に住む。地方でもインフラが整っているから、何不自由なく仕事も出来る。だから、これからは分散化がもっと進んでいくでしょうね。最近、プロジェクトでデンバーを訪れることがあって、実際に行ってみると、高地で、空気も綺麗で、地価も安い。若者が流入し始めているのも納得がいきました。

都市についていえば、モダニズムが破綻して大分経つのに、それに代わる都市の未来像が未だに提示されていない。そろそろ、ニューヨーク、ロンドン、パリ、東京が一番でないことに気付かなければいけないですね。これらの都市像はもう形骸化してしまっていて、高密度で優秀な人が集まっているから新しいものが生まれているように見えるけど、例えば、テックであればシリコンバレーが世界の中心になっている。都市としてユニークかは疑問ですが、一つの新しい都市像は提示していると思うのです。だから、東京やニューヨークでも、高密度高層とは別の可能性もどんどん実験的に探っていかなければならないと思うんです。都市計画とか大それたものではなく、建築とソフトを連動させながら、実験的な試みができる受け皿を作っていく......。そういうことばかり言っているのですが、そうやって変化していけるということを意識しながら、行動に移していくのが大事なんだと思います。


こうした大きな価値観の再編は、なにも住空間だけに起きている訳ではなさそうですね。以前「現代はルネサンス期のような局面を迎えている」と仰っていましたが……。

変化をネガティヴに捉える人もいるじゃないですか。もしかしたら将来は、本が無くなるかもしれないし、AIが人間の仕事を奪うかもしれない。でも、私は価値観が再定義されていくのを見るとワクワクするんです。一方で、本質的なことは何も変わっていないのに、豊かさや便利さのせいで、変化が起こっていると錯覚してる部分もある思っています。変化していくことについて、私は二つ思うことがあって、まず一つは、変化をポジティヴに捉えて、社会の再編に建築家として貢献していきたいという想いです。現在、私が関わっているアートと宗教のプロジェクトでは、まさに再定義の必要が迫られています。国際的なアートオークション会社、サザビーズのニューヨーク本部のプロジェクトでは、オンラインセールスやプライベートセールスの台頭によって、オークションという販売形態が立ち行かなくなった状況下でのオークションハウスの在り方を。また、ロサンゼルスにあるユダヤ教の寺院「オードリー・アーマス・パビリオン」のプロジェクトでは、信者のみならず、より広範なパブリックに開かれた寺院のあり方について考えています。こうして社会の変化に積極的に関わることで、建築にも変化がもたらされることを期待しています。もう一つは、批評性をもって本質的な変化とは何かを見極め、そして関わっていきたいという想いです。最近「フューチャー」や「イノベーション」をテーマにしたカンファレンスに呼んで頂くことが多いのですが、そこで「イノベーション」という言葉がカジュアルに扱われていることに違和感を感じました。イノベーション、イノベーションと盛り上がっているけれど、それによって何が本質的に変わるのか。毎日の生活は少し便利になったけれど、戦争や貧困は無くなっていない……。変化に関わることは刺激的ですが、それが特定グループの利のためか、それとも社会広範の善に寄与するものなのかをそれぞれが見極める必要があると思うのです。


社会の変化と呼応するように、近年では、建築家がスタートアップ企業と組んだり、建築家自身がスタートアップ企業を立ち上げたり、新しい動きが起き始めています。OMA/AMOは建築という定義を拡張してきたパイオニア的存在ですが、今後、何か新しい取り組みをされる予定はありますか? そして、建築家という仕事は今後どう変わっていくのでしょうか?

OMAという組織の中での変化を先導したのは私かもしれないですね。誰もニューヨークに興味を持っていなかった時に、5人の所員を連れて事務所を開けて、現在では90人近くの所員を抱えるまでに成長させた。そしてコールハースの名前に頼らずに、仕事が取れるようになった。私が自分の名前を出し始めた当初は、他のパートナー達から自己中だと文句を言われたものです。でも自分達も同じことが出来ると気付くと、皆がやり始めた。それからは、それぞれのパートナーがプロジェクトのオーナーシップを持って活動することで、一つの組織でありながら、それぞれの個も立つようになった。だけど、コールハース主導で活動していた時と比べると、今の活動が同じほどラディカルでクリティカルないかもしれないです。だから、まだ具体的には考えられていないのですが、私を含む若いパートナー達が、率先して新しい動きを起こしていかなければとは思っています。よく考えてみると、建築家には新しいビジネスを立ち上げる、そういう起業家精神が薄いのかもしれません。スタートアップ企業の人達は、新しいビジネスのアイディアしか考えていない。それが一概に良いとはいえません。けれど、否が応でも新しいアイディアが生まれてくる仕組みにはなっていると思います。建築家というのは他人のためにあくせくデザインをしてばっかりで、自分の興味あることもリサーチするんだけど、それが実際にどう社会を良くするかとか、経済的に成り立つのかとか、そこまで考えられていないケースが多いので、そこは変えていきたいですよね。でも忘れがちですが、起業家精神が素晴らしいのは、社会を良くするという目標のもとに立てられた活動が、経済効果として付いてくることにある。お金儲けにばかり走っている人もいますが、だからこそ、建築家も起業家になるための起業をするのではなく、そもそも、建築家の社会的役割が昔より失われている今だからこそ、どうすれば社会にポジティヴな変化をもたらす原動力となれるのかを考える必要がありますね。


社会の変化を見つめることは刺激的でもあるけれど、一方で、時に残酷な現実も見ざるを得ないですよね。変化に関わり続けることに、建築家として、そして一人の人間として圧倒されてしまうこともありますか? 建築家というのは、問題の解決しか出来ないのでしょうか? それとも建築を通して、人間を救ったり、癒したりも出来るのでしょうか?

社会の変化をジャーナリスティックに観察するというアプローチは、その時起こっていることに反応して、都度、起こす行動を決めなければならない。一方で、例えば、スイスや日本のある建築家は、それも分かっているけれど、本来的に建築は温もりや心地良さを人間に与えるもので、だから奇を衒うことも、新らしさを表現する必要もないというアプローチをする。だから、前者を、コールハースのような本当に頭脳明晰な人が続けるのは道理にかなってるけど、私自身がどうするかは正直まだ分からない。今はこのスタイルしか知らないから、その妥当性を信じて取り組み続けているけれど、これを一生続けるかは、自分の知性と体力と向き合ってよく考える必要がありますね。ただし、この人がいたから世の中が変わったなと思われるような建築家になりたいとは、常に強く思っています。ー

























































SPECIAL THANKS TO 
SOPHIA CHOI AT OMA, LEWIS CHAPLIN AT LOOSE JOINTS, ATSUSHI HAMANAKA AT TWELVEBOOKS, CODY RANALDO.