PHOTOGRAPHY SEAN VEGEZZI
INTERVIEW TEXT NAOKI KOTAKA
建築家は、社会に変化をもたらす原動力となれるのか?
「I’M DOOMED TO LIVE WITH CRISIS(私の人生は、危機的状況と常に運命付けられてきました)」。この言葉は、重松のレクチャーの冒頭でよく使われる示唆に富んだジョークだ。あっけらかんと語られるものだから、大抵の聴衆は深く考えずに、笑って聞き流してしまう。しかし、レクチャーが進むにつれて、このジョークこそが彼の思考や行動を本質的に表してることに驚かされるのだ。
こうした気付きを得て、社会の変化に翻弄されない知性と体力、そして変化の本質を捉える洞察力を重松は手に入れた。社会の変化を察知し、リサーチへと昇華させ、来るべき時のために知を蓄えた。こうした意識改革が功を奏したのか、彼の周りにも変化が起き始めた。OMA初のマンハッタンでの建築作品「121 EAST 22ND STREET」の高層レジデンス、蔡國強のアトリエ、METコスチューム・インスティテュートのガラと展覧会、タリン・サイモンとのアートインスタレーションなど、プロジェクトが次々と動き始めたのである。変化に受動的に翻弄されるのではなく、主体的に参加すること。つまり、自分自身が変化を創り出す原動力になる、そう決めて動き始めたことの成果だった。
本特集の撮影は、完成間近の「121 EAST 22ND STREET」の現場で始まった。下水道やトンネルなど“マンハッタンの裏側”を撮影した写真作品で知られる、アーティストのショーン・ヴァジェッツィに撮影を依頼した。撮影後、掲載する写真についてやり取りしていると、彼がこんなことを言った。「ショー(=象平)が創るスペースは魅力的だ。ニューヨークの巨大な都市のエネルギーと繋がりながらも、中に入ると不思議と心を鎮めてくれるんだ」。彼の言葉は、撮影日前日に行なったインタビューで、私が受けた重松の印象と一致するものだった。それは、ニューヨークという大都市の目紛しい変化と関わり合うために旺盛に行動しながらも、冷静な思考をもって、どんなポジティヴな変化を社会にもたらすことが出来るのかを真摯に問い続ける建築家の姿だった。
こうした出来事を経験して、また、ある部分では自分自身も振り回されたことが、社会の変化に目を向けたきっかけでした。それからハーバード大学で「災害下の都市と建築(POST-CRISIS URBANISM AND ARCHITECTURE)」というリサーチを学生達と立ち上げました。不況のような経済災害や台風などの自然災害、そうした危機的状況の後で人間の心理や都市がどう変化していくかをリサーチしたんです。団塊の世代の私の親は、上向きの経済しか経験してこなかったけど、団塊ジュニア世代の私は、ずっと下向きの経済の中で生きてきた。だから近代化が終わりかけて、人口も減って、経済も落ち込んできている国や都市と、ある部分ではずっと向き合ってきたんですね。それまで溢れんばかりにあった建築の需要が、突如失われた。すると、建築家というのは建てることが前提としてあるので、落ち込んでしまう。成長という強いベクトルを失った時に建築家は何を為すべきか。それを見極めようとしました。それでリサーチを進めていくと、危機的状況下では、社会の様々な部分が再定義され、新しい価値観が生まれるなど、ポジティヴな変化も起こっていることが分かった。だから、そういう時にこそ建築家は、建てること以外の役割を社会の仕組みの中で再定義していく必要があるのだと学びましたね。例えば、不況下のアメリカでは建築家に代わってランドスケープデザイナーが力を持ち始めたんです。彼らはデペロッパーに頼らず、建物も建てずに、都市の公共空間を低予算でアップグレードしていった。こうした社会の需要の変化からも学ぶことで、自分の建築家としての役割を常にアップデートしていたいと思うのです。