TSUYOSHI NOGUCHI

比例する生き様とスタイル。 1/2
ISSUE 6
INTERVIEW TEXT RISA YAMAGUCHI
今も尚、絶対的存在感を放ち、第一線で活躍し続ける野口強。スタイリストという職業を世に広めた人物としても知られ、これまでに様々なメディアで幾度となくフィーチャーされてきている。本インタビューをするにあたり、彼に纏わる情報や知識を事前にインプットし、輝かしい経歴、圧倒的なセンス、人望の厚さを改めて思い知らされたのだが、そこで疑問に思うことがあった。「その後、彼ほどの存在が現れただろうか?」。実は彼自身もそこを懸念している一人だった。「今は(スタイリストは)もう人気商売じゃないからさ、やっぱり給料を払わない奴らが多過ぎるんだよね。それで休みも無かったら集まるわけないよ。“奴隷制度”は我々の世代で終わらせて欲しいよね」。

「やっぱり人に恵まれていたんじゃないかな。それしかないかな」と話すほど、インタビュー中には“人”というワードが頻繁に登場する。「(師匠だった)大久保(篤志)さんは凄くお世話になったよ。『大久保さん、今日は飯何食いに行きますか?』と言っていたし、その後は飲みにも連れて行ってもらって。自分は良い先生に当たったかな。周りを見ていたら皆大変そうだったけどね」。勿論、人との繋がりだけで今の彼が形成されてきたわけではない。生い立ち、スタイリストになった経緯などは今までも他誌のインタビューで答えてきているため、ここでは割愛したいところだが、未来のファッション業界を担うであろう若者達に向け、改めて知って欲しいという思いも込め、彼のここまでの人生について、お酒の力も借りながら根掘り葉掘り聞いてみようと決意した。

大阪府出身の野口強は小学生の頃、野球に明け暮れる日々を送る普通の少年だったという。中学校に入っても変わらず野球を続けていたが、その在学途中からアルバイトを中心とした生活が本格的に始まることに。「高校受験をする時、両親が『公立じゃないと授業料は出さない。私立に行くのなら家の仕事を継ぎなさい』と言われて。でも家業を継ぐのは絶対に嫌で、当時は公立に受かるものだと思っていたら落ちちゃって(笑)。とにかく高校は行きたかったから入学金や三年間の授業料など合わせて200万円くらいかかるんだけど、その書類にサインをしてそれから返済の日々が始まったわけ。とにかく時給の高いバイトを探して、水商売、SIMMONSの展示会でベッドを運んだり、運送業、焼肉屋の鉄板洗い、特に一番辛かったのはバキュームカーの掃除だね。タンクの中身を全部出した後にその中を清掃するんだけど、ウェットスーツにヘルメットを被ってデッキブラシとホースで洗うんだけど、一台洗うと五万円くれるわけ。でも滅茶苦茶キツくて……。掃除している時はいいんだけど、家に帰っても匂いが消えなくて、一日じゃ全然匂いがとれないんだよ」。

想像を絶するような経験を笑いながら振り返る野口が、スタイリストという職業を知ったのもこの頃だったという。「夜のディスコでバイトをしていた時、知り合う人は全員歳上だから、大学生や洋服屋の店員、ヤクザもいれば、色々な人達が来ていたんだよね。格好良いなと思う人が洋服屋の店員さんで、お店に行って買い物をして、そこでスタイリストという仕事があるのを知ったんだよね。高校を卒業した時は借金も返済し終わって、ある程度お金を持っていたから専門学校に通うかどうか考えていたんだけど、先輩がNYU(ニューヨーク大学)に行っていたからニューヨークに遊びに行ってみようと思って、三ヵ月くらい行ってたかな。帰国してから大阪でスタイリストアシスタントをやっていたんだけど、その時に資生堂の『花椿』の撮影でピックアップされて、東京に行った時に大久保さんと知り合い、東京で働くようになったんだよね」。

約10年前、某雑誌のインタビューにて、スタイリストになりたい人へのアドバイスとして「水商売、肉体労働、洋服関係の三つでバイトすること」と語っていた野口だが、今もその考えは変わらないのだろうか? 「思うね。センスは持って生まれたモノだし、映画や写真集を見て知識を増やすのはいいけどね。師匠からは『人脈だけ盗みなさい』って。肉体労働では体力が必要だし、水商売は空気が読めて、洋服関係は洋服のイロハが分かるようになる」。

スタイリストとして活躍する傍ら、自らが被写体となり様々な誌面にも登場。若かりし頃は、台湾のCMにまで出演した経験もあるほど。「大久保さんのアシスタントを辞める時に、お祝いとして初めて仕事を貰ったんだよね。打ち合わせに行ったら予算が無いから『お前がモデルやれよ』って(苦笑)。モデル料を少しくれるって言うから『じゃあやろうかな』って。当時の台湾の撮影は凄かったよ。空港まで迎えに来てくれたんだけど、レッドカーペットを敷いてくれたから(笑)。台湾のテレビ番組にまで出たからね。当時の台湾ではロン毛の人はヒッピー扱いされて入国出来なくて、暑いのにタートルネックを着て、その中に髪を入れてたね。結んでも駄目でさ。その頃、電通の人に『野口強のキャラクターショップを台湾でやろう! 今やったら絶対儲かるから』って。もちろん断ったけど。悪かったね、過去形の話ばっかりで(笑)」。

下積み時代から華々しい経験を積み、百戦錬磨の撮影をこなしてきた野口だが、今までに辞めたいと脳裏をよぎったことはないのだろうか。「(スタイリストを)辞めたいと思ったことはないかも。撮影をやり直したいとは日々思うよ。撮影をしている時は『これがベストかな!』と思うんだけど、雑誌が出る頃には気分も変わっているし、『もっとこうした方が良かったかな』と思うんだよね。これを何十年も繰り返してる。満足したら辞めてるんじゃないかな。最近よく話すのが、撮影をやっていても新鮮じゃないわけよ。新しいメンバーとセッションしても、こうやればこういう仕上がりになる、って読めるようになっちゃって。『新しい提案を』って思うけど、新しいことが果たして良いのか? これより新しいことがあるのか? 今の若い子にとっては昔、自分達がやっていたことがフレッシュに感じて、例えば80Sや90Sだったり。フレッシュだと思う若いヘアメイク、フォトグラファー達と仕事をしても『どこかで見たことあるな!?』となっちゃうわけ。王道は崩れないから、未だに先生方がやっているわけじゃない。そこが正解だとも思うんだけど、でもやっぱり何かやった方が良いんじゃないのかなって思うのよ。今でも模索中。『このままじゃいけないな』って思う」。常に向上心を持って活動し続けている彼は、雑誌でのスタイリングワークこそが自らの生命線だと強く主張する。「バランス良くやるのが難しくて、皆、タレント(のスタイリング)に偏ってしまいがちだけど、自分もそういう時期があって、でも雑誌をやっていかなきゃと思ったんだよね。誰だって良い時はあるけど、気付いた時には新しい子が出てくるから、そうするとハッと気付いた時に帰る場所が無いんだよ。気付いた時に『雑誌をやりたいです』と言っても受け皿が無い。だって、CMを観て格好良いって思う? お偉いさんが洋服の色とかを全部決めるんだったら、自分じゃなくてもいいんじゃないかなって思うよね。というような葛藤もあるし、今でこそ割り切ってやれるけれど、自分は出来ることならこっち(雑誌)で稼げたらいいなって思うな。お金の無い雑誌ばかりやってるけど(笑)」。




HUGE (SEPTEMBER 2006)
PHOTOGRAPHY BY TAKAY




HUGE (APRIL 2012)
PHOTOGRAPHY BY TERRY RICHARDSON




MR. HIGH FASHION (FEBRUARY 2003)
PHOTOGRAPHY BY ROSEMARY