SIRLOIN


「愚かさと優雅さ」から成る衣服を巡って。 1/2
ISSUE 6
INTERVIEW TEXT SHINGO ISOYAMA
ファッションに対するネガティヴな言説が立ち込めている。そんなネガティヴネスを酒の肴に頬を赤らめ、「あの時代は良かったですね」「今の時代は暗いですね」「若い人達は、元気が無いですね」と頷き合っている人達がいる。彼らは、かつて過ごした自らの時代こそが一番だ、とでも言いたいのだろうか。或いは、単純に古いモノが消えることを嘆いているのだろうか。一方、店頭では同じ生産過程で作られたほとんど同じデザインの製品を目にする。それらが違う点は、おおよそブランドタグだけである。そのような“手癖”で作られるモノは、当然消費される速度も速いと思われる。勿論、消費者の日々の選択や行動も時代と共に急速に変化している。本来ファッションに投じるはずだった時間を他の何かに投じている、という状況はあちこちで起きていることだろう。今後、ファッション以外の産業と「いかにして消費者の時間を奪い合うか」という競争がさらに熾烈になるはずだ。問題は勿論これだけではない。特に作り手側はコストや在庫の問題に目を配りつつ、スピード化する情報への対応をし、製品のクオリティを保った上で納期を守らなくては、ブランドを継続していくことが不可能だ。複数の問題を考えれば考える程、ファッション産業の複合的な構造を思い知る。ラッキーパンチを狙っての参入など正気の沙汰ではないと思えてくる。ネガティヴネスを感じるのは、真っ当なことだとさえ思えてくるのだ。現状、煮詰まっている者には悲観的に映り、生煮えの者には楽観的に映っているのかもしれない。

「宇佐美麻緒。京都府生まれ。京都造形芸術大学空間演出デザイン学科に一年間在学。2008年セントラル・セント・マーチンズのファッション学部ウィメンズ学科入学後、現代アーティストの下で経験を積み、2012年度にLVMH GRAND PRIX SCHOLARSHIP、2013年度にはL'OREAL PROFESSIONAL YOUNG DESIGN TALENT AWARDを受賞」。数年前、パソコンのメモ欄に書き置きした宇佐美のプロフィールである。その後、LOUIS VUITTONにてバッグのデザイナーを務めていたことは風の噂で聞いていたが、ブランドコンセプト「ステューピッド・エレガンス」を掲げ、上海で下着を中心に作っていることは、去年初めて連絡を取った際に知ったのだった。「東京の生地展に行く予定です」との連絡を受けた4月頃、それならばと思い切って「SIRLOINの服と一緒に来日して頂けませんでしょうか?」と返信した。当日、鞄いっぱいに詰まったメイド・イン・チャイナの服達は、彼女の話す「ステューピッド・エレガンス」を文字通り反映していたのと共に、中国大陸がもたらす新たな可能性をも表現していたのだった。その後、二人で東京の街を歩いた。僕の頭にあった東京らしいと思うショップを紹介するも、あまり気乗りがしない様子だったので、どこが気になっているか尋ねたところ、出て来た答えは「たんぽぽハウス」。日本の激安リサイクルショップであった。

誰しもが、特異で他に替えようのない癖や習慣を持っている。社会にはそんな様々な人間の癖や習慣、無意識が内在している。「日常生活のちょっとした一瞬に生まれた無意識の服のシルエットが、マドレーヌ・ヴィオネが作るドレス並みにドレープしていることがありました」と語る宇佐美。無意識の内に起こった現象や一風変わった習慣が、日常へと流れ去ってしまう前にインスピレーションとして見付け出すスキルが彼女にはある。さらに日常から得た着想を握って離さず、ディテールワークへと深く潜っていく技術も兼ね備えている。自らを「ディテールマニア」だと称する彼女は、見るだけではなく「作れるマニア」もである。一時期、針の解説書をダウンロードしては読みふける生活を繰り返してしたという彼女。現在はアトリエから程近い縫製工場にて縫い子さん達と密な時間を共に過ごすことにより、アウトプットの地盤を築き上げている真っ最中である。

インスピレーションが幾重にも重なり合った繊維と繊維の間に沈み、縫い合わされることで新しい造形が立ち上がる。そのように繊維で満たされた服は、時代の気配を潜在させながら沈黙する。絵画に残る筆跡を追うことで、かつてキャンバスの上を自由に動き、やがて凝固された手の運動を知覚するようなアスレティックな感覚で、SIRLOINのディテールをとらえた時、立ち現れて来るのは「ステューピッド・エレガンス」な輪郭だ。


ファッションデザイナーを志したきっかけを教えて下さい。

母親が企業内のファッションデザイナーだったので、小さい頃からファッションが身近にありました。


ということは、母親の作った服やクローゼットにある服を着ていたことがきっかけだったのでしょうか?

着ていた、というよりも、むしろ作っていましたね。小学生の時には、親が持ち帰ってきた仕事を一緒に手伝ったりもしていました。そういえば、凄く小さいキューピー人形に布を巻き付け、手縫いでドレーピングの練習したこともありました(笑)。高校卒業後は、セントラル・セント・マーチンズ(以下CSM)のファンデーションコースに進学する予定だったのですが、当時はファッションやアートの知識が全く無く、基礎を築いてから行った方が遥かに効率的だろうなと思い、一年間だけ京都造形大学の空間演出デザイン学科に行きました。その学科にはファッションデザインコースがあったんです。


京都での学校生活はいかがでしたか?

午前中の授業はパターンやデザイン画が中心でしたが、午後には選択授業があり、グラフィック、写真、現代アートなどを学びました。CSMでは良い意味でファッションしか学ばなかったのですが、京都造形大学では様々な分野の方々と関わることが出来、思考の柔軟性やチームワークへの意識が生まれました。ここで身に付けた考え方は今でも生かせていると思います。


CSMでの卒業コレクションのテーマは「UNISEXY」でした。

言葉だと説明が難しいですね……。そもそも「ユニセックス」という言葉を多くの人が誤用していると感じていました。本来は「ユニット・セックス」、つまりは性を一つに融合するというニュアンスがあるのですが、反対の性へ移るという「トランスジェンダー」のような解釈で捉えている人が多いように感じていたんです。そこで、文字通りの「ユニセックス」を考え、「男女の性を融合させた上でのセクシーさは、一体どこにあるのだろうか?」というテーマを論文形式で書きました。そして、その論文を元にして卒業コレクションを制作したんです。


その後、LOUIS VUITTONのデザインチームに入られました。そこで学んだ経験についてお聞かせ下さい。

私が関わっていたのは主にバッグデザインだったのですが、シンプルに、ファッションに対する経験値が上がったと感じています。


ヨーロッパにおけるファッション産業について、どのように感じていましたか?

ヨーロッパのブランドがかなり似通った服作りをするようになってきていると感じました。違う人からの指示で動いてはいるものの、多くの人が同じ工場や生地屋さんを使っていて、見えているモノに段々と限りが出てきた印象です。世界情勢もそうですが、人件費という観点から考えてみても、とてもシビアだと思います。現実的な話、生産能力に対してのコストが高いんです。例えば、若手のブランドがロンドンを拠点にブランドを始めようと思った場合、一着が高級ブランド並みの値段になってしまうこともしばしばです。それなら違う国で、その国にあるモノを生かし、違うことをやった方が可能性があると思いました。


上海に拠点を移された決め手は何だったのでしょうか?

CSMを卒業したタイミングで、実は上海の資本家から「一緒にブランドをやりませんか?」とお声掛けを頂いていました。「上海に渡るのもありかもしれない」と思う一方、「やっぱり急すぎる……、パリという候補もあるし……」とも思ってしまい、迷った挙げ句にコイントスで決めました(笑)。出た面がパリだったので、パリに行ったんです。上海の資本家の方とはその後もお付き合いがあり、ビジネスの話やプライベートな話を重ねる中で信頼できる関係性が少しずつ出来てきました。


もしも同じタイミングで日本からオファーが来ていたら、どうだったでしょうか?

どうでしょうね……。それも多分、コイントスで決めていましたね(笑)。


その迷いはどこから来るのでしょうか?

正直、東京という立地もかなりシビアだと思うからです。特にヨーロッパや日本などの先進国だと、既にマーケティングに集中したモノ作りをやり切っているのではないかと思います。その分、上海はまだこれから、という気がしますね。




パリで披露された2017-18年秋冬コレクションのプレゼンテーションより。