AFTER AFTER WARS

ISSUE 7
TEXT SHINGO ISOYAMA
PHOTOGRAPHY TEAM WRITTENAFTERWARDS
あとがきの前書き。

本文は、去年開催されたWRITTENAFTERWARDSの2018年春夏コレクション「AFTER WARS」についての、あとがきのような文章となっている。あとがきとは著者によって書かれるのが通例である。しかしながら、そもそもWRITTENAFTERWARDSというブランド自体が、あとがきのような物語を描いているのだから話は込み入ってもくる。今回の物語の制作場所となったのは東京都庭園美術館。同美術館で開催される展覧会『装飾は流転する』に参加アーティストの一人として選出され、新作を含む展示を控えていたということと、オープニングイベントとして同場所で開催されるファッションショーの準備が必要であるということが重なり、アトリエの機能を庭園美術館内の展示物の入っていない状態だった新館ギャラリー1、そして会期中に様々なプログラムが行われている新館ギャラリー2に移した。ミシンや机、椅子、画材道具などに加え、展示予定の過去のアーカイヴ作品を運び出すという、ちょっとしたお引っ越し状態となった。展覧会開催に向け、亜洲中西屋の中西大輔氏と中西多香氏と共に僕は企画・製作を行った。また、ファッションショーでも企画、制作という立場として、恐らく山縣の一番近くで過ごしてきた。ショーが終わってからしばらく経ったある日、今回の経験を何かの形で纏めておきたいと思い立った。振り返ってみると、その都度、短い感想や反省、笑い話はするものの、当時を振り返って考えてきたことなどを、山縣に話す機会は少なかった。というのも「こういうのはもう少し時間を置いてから話すものだ」などと腰の重い僕が思いとどまる間に、山縣は次のコレクションに向けて前へ前へと進んでいってしまうからである。そのような訳で今回、個人的な「あとがきのあとがき」を書き残したいと思ったのである。

2017年11月17日の朝7時頃、東京都庭園美術館の正門の前に到着する。既に何人かのスタッフが集まっていた。ファッションショー当日ということに加えて、未だに終わる見込みのない作業が山積みということもあり、各々から緊張感が感じられた。製作場所となった庭園美術館内に移されたアトリエに通い詰めてから一ヵ月弱、全てはこの日のためにあったといっても過言ではない。そう思った矢先、山縣から「ごめん!ぼく目覚まし間違えてた。急いで向かいます!」と連絡があった。前日にギリギリまで作業していた疲れからだろうか。山縣が到着するまでの間、僕はコンビニに行き、当時毎日食べていたスニッカーズを買い、左右反対に付けていたコンタクトレンズを付け直した後、美術館の周辺を散策していた。再び門の前へ戻ると山縣の姿があった。8時頃、門が開く。各々が持ち場へと一直線に向かった。


居心地の良い場所と、
その周辺。

僕が初めて山縣に会った日から約5年の月日が経った。当時19歳の僕は通っていた専門学校の居心地の悪さに耐えられず、授業をサボっては、ゴールデン街で飲み歩いていた。ある晩、とある飲み屋で知り合った友人から「ファッションに興味があるなら知っておいた方が良い人がいる」という話を聞き、そこで山縣の存在を初めて知ることになる。初めて出会ったのは、2012年に開催されていたイベント「トランスアーツ東京」に遊びに行った時のこと。旧東京電機大学校舎で開催された大掛かりなイベントに、ここのがっこうの生徒を率いた山縣も参加していた。校舎内にあるエレベーターを降りると、煌々と照りつけた照明が目に入る。その照明の先には、日頃、開催場所の神田で見かけることがないであろう特異な服装をした人々がいた。その中の一人に山縣がいて、僕は友人から紹介を受けた。一言二言交わした後、山縣は何かを探しにその照明の方に向かって走って行った。光の煌めきの中へと氏の輪郭が溶け入ったように見えた光景が、その日の出会いに関しての一番古い記憶である。その後のことはよく覚えていないが、数日後に行われた撤収時には、山縣と二人で廃材を見付け、ノコギリで切り、釘を打ち、「七福神」を入れる箱を作っていた。 同じ年の冬、山縣のアトリエを初めて訪れた。玄関を開けると、奥の方から爽やかな風が流れてきた。床には猫が寝そべっていて、目線を上げると大きい本棚がある。ミシンは山のような書類や画材類に埋もれていたものの、何とも居心地の良い場所だと感じたことを覚えている。そして、ここから何かが始まるという予感を強く感じたのであった。

5年が経った今、僕達を取り巻く環境は、大きく変化したという実感がある。既に、ソーシャルメディアなど無かったかつての生活を想像する方が難しいし、この先もまた、極めて短期間の内に思考形態そのものが書き換わるタイミングが訪れると思う。そのような状況を念頭に置き、この先どのような道筋を歩めばいいのかを考えてみたい。まずは、消費者が以前にも増してより複雑なコードを生み出している、という点から考えてみる。現在はインスタグラムやWEARなどを利用することで着飾った自分を何時でもアップすることが出来、「いいね」などの評価が可視化されることとなった。可視化は更に広がり、誰彼がどのように情報の束を掴んでいて、誰が誰に興味があるのか、または誰が誰に対して評価しているかも覗き見出来るようになった。そのように、他者の視線が付きまとうように感じることなどをきっかけに、「自分をこういう風にみて欲しい」「本来自分はこうありたい」などという意識や無意識が入り混じった複雑なコードが生成される。他者からの評価が数値化されることで、その複雑さはなおいっそう加速する。更に、そこにその他のソーシャルメディアや現実とが絡み合ってくる。日頃よく耳にする「あいつは分かってるやつだ」という発言も、ここでいうところの「(暗黙のコードが)分かってるやつ」という風に解釈することが出来るだろう。そうして徐々に形作られるそのコードこそが、新しいトライブを作るのである。

そのようなコードの生成過程を踏まえた上で、今現代の消費者のことをユーザーとして捉えてみたい。彼ら彼女らが常日頃、投稿するインスタグラム、WEAR、YOUTUBE、TWITTERなどをみると、一次創作を素材(ネタ)として二次創作をしているようにもみえる。昨年あたりに創作された「インスタ映え」という言葉も、二次創作に加工しやすい素材を一次創作が提供する、ということから始まっている。「この加工したい!」と思わせる感覚をいかに作るのかにクリエイティヴィティをみることも出来る。しかしながら、モノとしての衣服が置き去りにされている印象も残る。イメージを優先した記号的なモノ作り、イメージのみの消費が猛スピードで行き交う今、衣服自体にアウラを見出すことは果たして可能だろうか。


あの時の制作風景から。

山縣はいつも、自分の人生を軸にして様々な物事をそこへ引き寄せる形で物語を紡ぐ。今回の物語は、山縣が祖母の話を耳にしたことから始まった。それは、若かりし頃の祖母が出身地の長崎で原爆のきのこ雲を見たという話だった。祖母がかつて歩んだであろう激動の人生。そんな姿を想像した山縣は、戦前、戦中、戦後を生きた女性を始点に製作を始めることを決意する。 アトリエには、かつてないほどの数のインスピレーションボードが並び、石内都氏の画像をはじめ、マリー・ローランサン、『はだしのゲン』の資料、『二十四の瞳』のポスター、戦時中の衣服、中国の纏足、鳥取の山、 稲田防衛大臣と記者団、 庭園美術館に関するリサーチ資料などが貼ってある。インスピレーションボードとは別に、登場予定のルックの写真と、そこに添えられたメモを貼り付けただけの資料もある。メモには「INTERVIEW LOOK」「DQ LOOK(棺桶)」「リヤカー LOOK(引っ越し)」「服の山(燃えた着物)」「LITTLE RED GIRLS
(防災頭巾)」「UNIFORM LOOK(中学生)」「森人1」「森人2」「森人3」「MOUNTAIN 1」「MOUNTAIN 2」「MOUNTAIN 3」と書かれている。ショーに登場したこれらのルックは、山縣にとって着想通りの形となり得たのであろうか。

製作を通して、山縣はいかに嘘のないストレートな表現出来るのか、ということを考えていた。そして、自身がリアリティを感じる光景を中心にイメージを膨らませていった。僕は、戦争に関する文言を集めてから手繰り寄せていこうと考えた。そこで巡り合った情動を含めた記憶達は、教科書通りの記述では取り逃がしてしまうような質感を僕に残した。戦前にアイデンティティを持つ者と戦後にアイデンティティを持つ者では、思考形態そのものが異なっているし、第一線で戦う兵士と家庭を守る主婦では、戦争に対する価値観も開きがあった。いつ、どこで書かれたかによって内容は大きく変わり、同じ語り手でも戦前・戦後で正反対の意見を述べる例は数多くあった。歴史の一部を告げるかつての記憶は、記録に変換され教科書や資料館、ウェブサイトなど、その気になればいつでも取り出し可能な形でデータベースに保存されている。しかしながら、データベースに記録されていないものは取り出しようがない、という点についても触れておく。日々の出来事を丸ごと記録することは当然出来ない。それに意図的に消された記録も数多くあるはずなのだ。

正門を抜けたメンバーが資材を抱えて現場にやってくる。着くと同時に各々の作業を黙々と始める。色々な作業があったが、基本的にはその人のキャラにあった役割が自然と振り分けられていた。着物を集める者、着物を燃やす者、竹を切る者、それらを美術館まで運ぶ者、山の土台を作る者、千羽鶴を折り続ける者、リアカーを借りに行く者、モデルキャスティングを行う者、スタイリングアイテムを集める者、ミシンを踏み続ける者、手縫いをする者、パターンを引く者、棺桶を作る者、その中の花を集める者……。「人ありきのデザインだった」と山縣は当時を振り返る。思えば、ついさっき初めて会ったメンバー達がコレクションにおける重要なパートを任されていることもあったし、その人の得意とする技能にインスパイアされて完成したルックもあった。全員の行動や習慣や癖が、ゆっくりと絡まりながら製作物に流れていく。今改めてショーを見返すと、それぞれのルックから製作者の面影を感じ取ることが出来る。

11月初旬になると製作も佳境に入った。未だショーの全体像もぼんやりとしたままで、山は土台作りが大幅に遅れていた。雨風の強い日もあり、その時は屋根の下での作業になった。当初の予定を著しく遅れているにも関わらず、僕達が作業を続けられたのも、きっとこのショーは上手くいくだろうという根拠無い確信のようなものが我々の内に通底していたからかもしれない。そのようにして醸し出された現場の独特の空気は今でもよく覚えている。リハーサルは本番の直前に行われた。その内容は惨憺たるものだった。棺桶の車輪は外れてしまったし、モデルの着替えも上手く回っていない。リハーサルに出ていないモデルすらいた。そして何より心配だったのが、山のルックがランウェイをまともに進めなかったということである。本番までにそれら全てを対処しなければいけない。兎角、時間がない。僕はその都度やってくる問題に対して応急処置を施すように、最悪となり得る箇所だけを抑えながらメンバーにパスを出した。あちらこちらで怒号や無理なお願いが飛び交う中、各自が次々と鮮やかな答えを見付け出していった。予定より30分遅れてショーが始まった。


あとがきのあとがき。

ショーが終わってすぐに、僕は庭園美術館館内へ向かった。満員の人々の緩やかな流れに続き、谷川俊太郎氏の詩と着物で埋め尽くされた山ルックが置かれた部屋に辿り着いた時、込み上げてくるものがあった。その感覚はゾッとするほど深く込み上げ、そのままパッと通り過ぎてしまった。ファッションショーと展示にまつわる今日までの全てが詰め込まれた一瞬であった。「人は何故装うのか?」「そもそも装いとは何であるのか?」と常日頃考えている山縣。僕は、多くの時間を共に過ごしたということもあり、自分なりに考えてはみたものの、これといって納得する答えは今まで持っていなかった。しかしながらショー製作の中で、自分の中に新たな装い感が芽生え始めたことに気付く。それは製作が佳境を迎えた際のメンバーの姿を見た時だ。顔は真剣そのものなのに何故かヘンテコな作業着を着ている姿を見た時、妙に日本軍のつなぎのようにも見える服を着ている姿を見た時、それが妙に似合っていて是非ショーに出てもらおうという話になった時、寒空の中で展示用に集められた着物の山から自分に似合うものを自分に似合う着方で身に纏っている友人を見た時、やけに防護服が似合ってしまうメンバーを見た時、髪を緑に染めに行き堂々と戻ってくるメンバーの姿を見た時、それぞれの性格や習慣が、衣服や身体や表情の上に乗り移っていたのを強く感じたのである。僕はそんな姿のメンバーを見た時、人間の装いとは内側から滲み出てくるものであると感じた。それはふとした瞬間に顕れてくるものでもあると思う。そして、他者の評価にとらわれず、自分ならではの基準を定めた者に色濃く顕れてくるものだとも思う。しかしながら、多くの人達は、自身らしい、自分ならではの装いを認識するのは難しいのではないだろうか。それは、自分の体臭は自分では気付きにくい、ということと通ずるところがあると思う。そこで、自分とは何者なのかを知ろうとする人は、ルーツを辿る旅に出る。生まれた場所を訪れることから始まり、当時好きだったものを見つめ直し、自身の本来在りたい姿を考え直す。過去や現在や未来を考えるうちに、世の中は様々な濃淡、色彩の滲みがあることを改めて知る。時に自分と違う滲み方をしていると指差し、訳もなく憤慨している差別的な人に会うかもしれない。時には、他人にとって取るに足りないものを握りしめて生き抜いている人に出会うかもしれない。現実の底に沈んでいた灰色の歴史や虚構の中に滲み出た現実を見るかもしれない。ふと我に返り、現在の自分とは何なのかがはっきりと感じられるような瞬間が訪れる。それは長い旅先から帰ってきた後に、自分の部屋の匂いをほんの一瞬だけ感じられるような瞬間でもある。
山縣がWRITTENAFTERWARDSを設立した2007年、当時中学生だった僕はファッションの知識など微塵も無かった。衣服は機械が勝手に作っているとさえ思っていたくらいである。そんな僕もいつの間にかファッションが持つ力に導かれ、山縣に出会い、微力ながらも五年間に渡って物語を紡ぐお手伝いをしてきた。その中で、クリエーションにはあらゆる人との信頼が絡み合っているということを学んでいった。僕もそのような信頼に対し、信頼で応答としたいと思っている。生まれた歳や出自も違う僕達が出会えたのは、「ファッションが好きだ」ということをここまで握りしめて来れたからだと思う。そして遥か昔から創ることを信じ、創ることを辞めなかった人達がいるからである。最後になったが、ここまで届けてくれた全ての創り手達に、とりわけ山縣さんへ向けて心から「ありがとうございました」と伝えたい。ー