ASIA & ASIAN / YOON WOONGDAE

アジアの身体に退歩する。/尹雄大(ユン・ウンデ)2/4
ISSUE 4
ー時間に3本あまりの列車しか来ない乗り継ぎのローカル線を暫く待つ間、ベンチに腰掛けて過ごそうとしたものの、猛烈な陽射しが容赦無く照り付けていたため、座るのは止すことにした。プラットフォームを歩き、周囲の田圃から流れてくる風の通り道に僅かな涼味を見付けるとそこにしゃがみ込んだ。

向かいの乗り場にいる人達を仰ぎ見る格好になった途端、自分のとっている姿でありながらそこに随分と懐かしみを覚えた。かつては屋外で椅子など無くとも、膝を曲げ腰を落とした姿勢で休んだり、談笑し、飲み食いしている人々の姿を都鄙の如何を問わず、駅や街頭、畦道、木陰となる木の袂でよく見掛けたものだった。

日本だけではない。長じて旅したタイや韓国、インド、中国でも繁く目にした景色だ。かつて、しゃがむことは人々の営みに含まれていた、アジアの当たり前の身振りだった。向かいの乗り場でスマートフォンに視線を落としている青年も、スーツを着た男性も、手持ち無沙汰の時間を棒立ちで過ごしていた。時折、こちらに一瞥をくれる視線に見慣れない風体を見るような色合いを認める。やがて滑り込んで来た列車が警笛を鳴らして出発し、青々とした田畑の中に過ぎ去っていく様を低いアングルのまま眺めると、「アジア的身体」と呼ぶべきものの根拠がもう無くなっていくのだと否応無しに感じさせられた。そうして思い出したのは、かつて確かにあった身体の記憶にまつわる逸話だ。

地方で呉服を商う知人によると、彼の母親は常に着物を身に付けており、炊事においてもそれは変わらなかったという。当時の家屋にはまだ昔の造りが残っており、煮炊きする土間があった。彼女は菜を刻み、魚を切るにも俎板を床に置き、着物の裾が乱れないようそれに向かって斜交いに、突っ掛けた下駄から踵を浮かす格好で調理していたという。床に俎板を置くのは今では不衛生に思えても、調理する様子を描いた江戸期の絵を見れば確かにそのようにしている。だが、知人の話は前近代の出来事ではなく、しかも彼の実家に限った話でもなかった。彼曰く「1980年代の初頭くらいまで、うちに限らず近所はどこも似たようなものだった。ただ、家を増改築するようになってからは見掛けなくなった」。話を聞いた直後、その通りの格好を試してみた。バランスを取りつつ包丁を扱うという技巧的な手間を加えてしまい、決して普通に何気なくという調子にはならない。それはもう私の中には無い、過ぎ去ってしまった東アジアの身体であり文化なのだ。

現代ならではの身体文化として取り沙汰されるとしたら、そのような暮らしの所作よりは、コンテンポラリーダンスやパフォーマンスになるだろう。想像された感覚を推進力にしたクリエーションの果てと、曲芸のようなコンセプトの組み合わせの妙味をアートや身体表現という語に託して踊る人や語る人に出会うと、決まって居心地が悪くなる。関心を注いでいるのはあくまで「アート」や「表現」といった概念上の身体であって、決して身体ではないと感じるからだ。とはいえ、違和感ばかりせっせと募らせ、その記述に勤しんだところで身体に関してお喋りするのと変わりない。

私は大変不器用ながら、それでも唯一身体を感じる時がある。それは長らく学んでいる武術(MARTIAL ARTS)を稽古している時だ。拙い理解ながらも何故これに技芸、アートの名が付されているかといえば、未だ解明されていない空間と時間において、「今この時それ以外にない」というような、生命かけての表現がなされるからだと思っている。何かを表現しようとするのではなく、「いま」「ここ」において何かが表現されてしまう。そこに観念を挟む冗長さはない。

加えて武芸とアジア的身体に繋がりを見出すようになったのは、最近習っているインドネシアの武術、シラットに拠るところが大きい。正座や立膝といった床を前提にした日本の武術よりも更に低い、地べたに直に座り、しゃがんでの姿勢の攻防が特徴で、それをLOW ARTという。このアートは低い方がより表現として高度だという、コンセプチュアルな発想で生まれたわけではない。鶏を屠るにも脱穀するにも洗濯するにも、地べたにしゃがんで行うという暮らしがあるから技芸が生まれた。表現ではなく身体が先んじている。こういうアートでは概念やパフォーマンスが先行すると、全く技芸として成立しない。形骸化した、ただのパフォーマンスに成り下がる。先人達が諭すように、実の無いところに技も芸も無ければ、それらが咲かす花も無いのだと、身に染みて分かる。

何せ普段、あれこれと思いを巡らせ文章を書くといったように、頭と手しか使わないものだから、身体の纏まりというものが端から無い。私はいかにも現代人らしく、身体とは頭が命じて、概念を実行する。そうした客体として看做すといったコンセプチュアルな発想で、己の身体を捉えることに慣れてしまっている。「現代人らしく」というのも、私に限らず多くの人は、例えば「意識して体を動かす」という表現を奇異に感じないはずだからだ。しかし、誰が心臓を意識して動かすことができるだろう。本来、体は動くもので動かすものではない。生きることは常に能動でしかありえないように。

アジア的身体が消えつつあることに憂いを感じるのは、伝統にノスタルジーを抱いているわけでも、理想としているからでもない。伝統や理想を掲げた瞬間、現実ではなく、観念の世界に入っていることにもう少し用心深くあるべきだ。問題は生活から柄が消え、身体のルーツを見失うことで、自身の拠って立つところが見えなくなることだ。私が私であることに自信を持てなくなる。その時、私達はプライドやアイデンティティといった概念を身に付け、それを根拠に己を保持しようと躍起になる。そうした頭の中のみに渦巻く言葉の群れに根拠を求める限り、決して自信には行き着かない。何故なら自信には言葉の拠り所が無いからだ。おそらくそういう状態を指して古人は、「腹が座る」「胆力がある」といったのだろう。

情報と概念がいよいよ幅を利かせる時代にあって、それらを離れることは、今最も挑戦的なことだ。誰もが慌ただしく時間に追われ、先へと歩みを進ませるべく躍起になっている時、しゃがみ立ち止まる身体に目を向け、ルーツを尋ねることは退歩にしかならないだろう。だが、身体に立ち返り、自分がどこからやって来て、どこへ向かうのかを知る時、最も遅い者こそが最も早くなるのではないか。


尹雄大
ライター&インタビュアー。人物ルポやインタビューの傍ら、武術を稽古した体験を元に身体論を展開している。主な著書に『FLOW 韓氏意拳の哲学』(冬弓舎)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)。

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