ASIA & ASIAN / YUSUKE KOISHI

大陸の気配/小石祐介
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「イチマンエンからおあずかりします」。新大久保のイスラム横丁と呼ばれる通りにひっそりと佇む小さな食料品店で聞いたその声の主は、レジにいる店主と思わしき褐色の肌の男で、中東の出身のように見えた。一万円を差し出した客は着古したジーンズと色褪せた黒いポロシャツを着た、インドあるいはパキスタン人の、少し頭の禿げ上がった背の高い男だった。中東から極東まで様々な国籍の人間が集まるその場所で、外国人同士が日本語で会話している姿をあまり想像していなかったからだろう。レジの前で二人がやり取りする光景を目にして不意を突かれた気がした。

店の棚には香辛料やイスラム教徒用のハラルフードが押し込まれるようにして並んでいた。ラベルが貼られていなければどんな物か分からない袋入りの食材たち。その食材が入ったビニールの袋にうっすらと光が反射して映る店内の様子は異国のようで、じっと見ていると外国に居るような気がした。

店内には香辛料の匂いと共に、仄かな緊張感が霞のように漂っていたが、店主が日本語を発した瞬間、ほんの僅かに一瞬だけ日が射したように和らいだ。

その寮棟は「寮」と大きく書かれた建て札が無ければ、地方都市にある古い公立病院の病棟のようにも見えなくもなかった。所々剥げ落ちているクリーム色の外壁の塗装が、その建物が歩んできた年月を物語っている。日が落ちる頃、寮棟の廊下の曇りガラスから抜けてくるぼんやりとした蛍光灯の光を目にすると、自分が経験しているはずのない親の世代の古いノスタルジーをいつも押し付けられているような気分がした。

3階建ての寮棟の部屋はそれぞれが10畳程度の広さで、部屋割りは原則として2人から3人の相部屋だった。個室にありつけるのは役職についた高学年の学生だけで、学生達は狭い部屋の中で本棚とロッカーに細いロープを張り、その上にベッドシーツで作った手製のカーテンを掛け、野戦病院の病室のようなプライベートスペースを作って過ごしていた。今では当たり前になったインターネットの回線は何処にも引かれておらず、夜11時には全棟が消灯した。

留学生棟だけは例外だった。中東や東南アジアから集まった国費留学生達には個室とインターネットの回線が与えられていた。ある部屋はコンピュータルームという名の溜まり場として使われていて、その8畳程のスペースには彼らが自分で組み立てた巨大なコンピュータとJVCの黒いサウンドシステムが並んでいた。夜になるとその部屋の窓からはアメリカやイギリスのポップソングやR&Bの音が漏れ出し始める。イラン、モンゴル、スリランカ、インドネシア、ラオス、マレーシア、タイ、ベトナム……。様々な国籍の人間が一挙に集まった空間は、人種や国籍の坩堝となり、その様子は床に散らかった配線と相まって、ハリウッド映画に登場するハッカーの隠れ家を彷彿とさせた。その部屋の向かいにあるキッチンのテーブルには読むことの出来ない文字が印刷された瓶や袋入りの食材が並び、いつも外国の匂いが漂っていた。

棟のエントランスの重い鉄製の扉は、日本語と英語を公用語とする別の国に繋がる国境のように感じた。

15年が経った今、アジアという言葉を聞くといつもその鉄の扉の向こうで過ごした時を思い出す。英語と日本語を流暢に話す若い国際人たち。彼らが持ち込んだ海の向こう側の気配。

通り掛かりに入ったチャイナタウンの外れにある四川料理店は、地元のニューヨーカーたちよりも、中国系移民や中国本土からの観光客に知られているような店だった。客は私を除くと皆中国系の人々ばかりで、静かな店内にはヒソヒソとした中国語の会話がBGMとして響いていた。

店内を見渡すと赤い壁のあちこちに、菱型の札に「福」という漢字を書いて逆さまにした倒福の飾りが掛けられていた。巨大な香港の共同住宅を一室ずつ撮影した写真家の友人によると、この倒福の飾りは経済状況によらず殆どどの家庭にも共通して備えられている唯一のものらしい。店内のこの光景だけを見れば、中国人ですらこの店が本土にあるものだと錯覚するかもしれない。手元のメニューに書かれた英語表記だけが辛うじてこの場所が外国にあることを主張していた。

オーダーを取りに来たのは店の隅のテーブルに子供と一緒に座っていた、赤いRALPH LAURENのポロシャツを着た三十代後半と思われる中国人女性だった。厨房にオーダーを伝えると、そそくさと隅のテーブルに戻り、学校の宿題をしている息子の面倒を見始めた。子供は中国語と英語で、今日一日の間に学校であった出来事を母親に一生懸命伝えようとしていた。作文か何かの課題をやっているのかもしれない。おそらく移民三世なのだろう。

店内には4組程の客しかいなかったが、しばらくの間、料理は出て来なかった。ティーポットで出されたジャスミンティーも底をつき、さすがに心配になって厨房の方を眺めると、黒縁の四角いメガネをかけた初老の中国人の女性と目が合った。すると彼女はこちらに向かって中国語の言葉を発した後、新しいティーポットを持ってこちらにやってきた。

早口の中国語で何かを話し掛けられた時、何となく「もうすぐ出来る」とかそういう意味だろうと想像した。「中国語は分からない」と素直に英語で伝えると、彼女は少し驚いて目を見開き、がっかりとした表情を浮かべながら、隅に座っている女性に向かって大声で呼び掛けた。

「ごめんなさい。北京語が話せると思ったみたいで……。日本人はそんなに多くないから中国の人だと勘違いしてしまったみたい。母は殆ど英語が分からないのよ」。

二人は母娘だった。母親は何と言っていたのか聞くと、大体想像していた通りで、「小籠包は時間が掛かっているからもう少し待ってくれ」という意味だった。「何処から来たんですか?」と聞かれて、「東京から」と答えると、少しだけ嬉しそうに、ほぼ完璧なアメリカ英語の発音で彼女は言った。「BEAUTIFUL CITY. I VISITED JAPAN LAST YEAR」。

「日本のどちらに行ったのですか?」と聞かれるのを期待している様子に見えたが、むしろ私が聞きたかったのは彼女の母親のことだった。「英語が分からないままマンハッタンに移住したあなたの母親は、この街でどういった人生を歩んできたのでしょうか?」。そんな不躾な質問がふと浮かんだが、間違って質問しないようにと、湧き出した好奇心をジャスミンティーで飲み込んだ。

ぎこちない間が生まれそうになったその時、丁度店の入り口のドアベルが鳴り、新しい客が外の空気と共に店内に流れ込んできた。彼女はテーブルから去っていった。その瞬間、大陸から来た母娘たちの「中国的世界」への扉はぴたりと閉じられ、黒檀のテーブルの上では熱い淹れたてのジャスミンティーがまだ湯気を放っていた。


小石祐介
青森県三沢市出身。国内外のブランドの企画やコンサルティングを行うKLEINSTEINを主宰。組織の枠組みや分野領域を問わず様々な企画を立ち上げ展開するNOAVENUEを運営中。文筆家としても活動している。

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