NEW MIND NEW LOOK / YUSUKE KOISHI

周回遅れのデッドヒート。/小石祐介 4/4
ISSUE 3
およそ10年前、まだ学生だった頃、とあるアーティストの作った舞台に縁あって出演したことがある。その作品は少し変わったもので、出演する一人一人がアーティストに直接様々な質問を問い掛けられ、観客の前でそれに答えるというシーンで作られた実験的なものだった。細かい文脈は忘れてしまったが、自分が問い掛けられた質問はジャン=リュック・ゴダールの映画のワンシーンの中で、登場人物が会話に出した「愛に近い」という言葉の意味は何か?  というものだったことを覚えている。

「新しさ」について語られる時、その当時のことを思い出す。クリエーションの世界ではコンセプチュアルな試みはもはやほぼ出尽くしたといわれる時期だったと思う。インターネットの誕生から10年を経て、YOUTUBEやFACEBOOK等新しい発明が産声を上げたばかりで、世間では「新しさ」を謳った様々な試みが「INNOVATION」といった横文字の名の下に至る所で行われていた。正直な所、少し熱気に溢れていたその時の様子には得体の知れない違和感があった。それはまるで街中に突如としてグロテスクな彫刻のオブジェが建てられたような感覚だ。ストリートを歩くとそれが嫌でも視界に入ってくるような、そんな不快感である。色々な言葉がバズワードとして目の前を飛び交う様子は煩わしかった。しかし、本当の不快感はそれを煩わしいと感じている自分自身に対してのものだったのだと思う。気にしなければいいのだが、どうにも自分の力では頭の外に追いやることが中々できない。実際、そういった違和感はいつの時代にもあったようだ。世の中のメインストリームから発せられるバズワードやノイズから逃れる為、歴史的に人は古典やスタンダードに逃げ場を求めてきたのかもしれない。そこにある言葉や音楽に心を砕き、過去の感性に身を任せ、現実の違和感を隅に追いやるのだ。

自分にとってその避難場所は数学だった。それは人間が作ったものでありながら、人間が一切干渉できない聖域が存在する唯一の世界だったからだ。実社会で語られる問題と違い、そこには嘘や欺瞞が無い。その世界で使われる言葉は明確に意味が定義され、事実は「新しい」ものとして記録されていく。そして感性によって生まれた実体を持たない想像上の概念が、実体のある目の前の現実に干渉し、世界の見方をガラリと変えてしまう。そこでは本物の「INNOVATION」が起きるのだ。人間の叡智が数千年以上を掛けて緻密に積み上げられ、まるで巨大な建築物になっている。その中を歩くと、人間という存在が少なくとも少しは前進していることを感じて、安心することができた。

改めて振り返ると、その頃に語られていた「INNOVATION」の多くは実体が無く、およそ本来の意味での「革新」、「創造」、本質的な「新しさ」とは殆ど無縁のものだったように思う。仮にそれらの言葉を発言する度に多額の税金を収めなければならないという法律があったなら(実際あったら面白いかもしれない)、当時そこに居た殆どの人達は言葉を発することなく沈黙していたかもしれない。この時、教訓として分かったのは、言葉や概念は次第に使い古されていくということだった。言葉は自分の知らない間に使われ、すり減り、意味は変容する。そして実体の無いものになっていく。「INNOVATION」は勿論、「CREATION」もそうかもしれない。

舞台の話に戻ろう。ゴダールの映画に得体の知れない不快感しか感じられなかった自分は、問い掛けられた質問にこう答えたことを覚えている。「質問する側とされる側の間で共通認識や言葉の定義が無ければ、この対話は殆ど意味を成さない。言葉が摩耗するだけではないか」。随分と愛想の無い回答だったかも知れないが、抽象的な言葉や概念について語る時、今もこの態度は変わることはない。「新しさ」についても同様である。我々にとっての「新しさ」とは何だろうか。

創造における「新しさ」について語られているのを見る時、いつも頭に浮かぶのは、審判の居ない陸上競技の「トラック」の上を走るランナーと、その観戦者との関係だ。ランナーが沢山走っている歪な形のトラックを想像してみて欲しい。そのトラックの上には何十周、あるいは何百周も走っている長距離ランナーも居れば、新しくトラックに入った新参のランナー達も混在し、ランナーはそれぞれのペースでコースを周回している。我々が見ているフィールドには掲示板は無く、審判も居ない。初めてその場に訪れて観戦する人にとっては、誰が先頭を走っているのか分からないのだ。一番先頭を快調に走っているように見える人間が実は周回遅れのランナーであるかもしれないし、のろのろと後ろを走っている人間が、実はトラックの上を何度も周回している先頭ランナーの可能性もある。誰が先頭かを知りたければ常連の観戦者に状況を聞くしか無いが、その人が状況を正しく把握しているかどうかは正直分からない。こういった混沌とした状況を逆手に取り、トラック上では涼しい顔をして「先頭を走っている振り」をするランナーや、自分の贔屓にしているランナーのことを「先頭だ」と熱狂的にアピールする観客も出てくる。「先頭である事実」と「先頭らしさ」は最早区別が付かない。

実際の所、我々が普段話題にする「新しさ」や「最先端のクリエーション」は、本当の意味での先頭集団ではなく、新参のランナーによる「周回遅れのデッドヒート」から生まれているのかもしれない。クリエーションで新しさを競うことはこんな混沌としたトラックレースを走るようなものではないか。我々はその曖昧な状況下で物の新しさや出来事の新しさをいつも語ってきたのだと思う。「新しさ」はいつもそれが「誰にとってなのか」という束縛から逃れられないのだ。

数学者でもあったパスカルは「すべての人間の不幸は、部屋に一人で静かに座っていられないことに由来している」という言葉を残している。4世紀が経った今も新しさを求める我々の性は何も変わっていないのだろう。

我々がこれまで「新しさ」として語っていたものはむしろ「新しい=良い」という無意識に築かれた価値観の俎上にある別の「何か」ではないか。かつて刺激的であったはずの目の前の現実、それに退屈をしてしまう人間の本性を強く揺さぶってくれる「何か」。

「本当の新しさ」は何処から生まれてくるのだろうか。

それは周回遅れのデッドヒートから生まれてくるかもしれないし、もしかするとゆったりとしたペースで孤独に走るランナーの緩やかな軌道から見えてくるものなのかもしれない。或はもはや風景に溶け込み存在を忘れられたランナーと、その存在に改めて気付く新たな観客との間に生まれる関係性から浮かび上がってくるものなのかもしれない。ただ一つ確実なことは、それが何であれトラックの上でしか生まれないということだ。我々は結局、あれこれ文句を言いながら、いつか起きるかもしれない「本当の新しさ」の誕生を目にする為、トラックに足を運び、観戦し、そしてランナーは走り続けるだろう。いつか、誰もが部屋に一人で静かに座っていられるようになるその時まで。


小石祐介
青森県三沢市出身。KLEINSTEIN代表。国内外のファッションブランドの企画やコンサルティングに携わる傍ら、組織の枠組みや分野領域を問わず様々な企画を立ち上げ展開するNOAVENUEを主宰。文筆家としても活動中。

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