UNOBITUARIES OF HEROES / FUMIHIRO HAYASHI

いつかどこかで。ヒーローたちの足跡。/林文浩 4/5
ISSUE 2
TEXT CHIKASHI SUZUKI
ソフィア・コッポラ、マーク・ゴンザレス、ハーモニー・コリン、クロエ・セヴィニー、アーロン・ローズ……。林さん(林文浩/1964~2011)に紹介してもらって一緒に遊んで仕事してきた、彼の友人たちの名前を挙げてみた。映画『ロスト・イン・トランスレーション』(2003年)に出演し、世界初のカルチャー系ポルノ雑誌『RICHARDSON MAGAZINE』を立ち上げ、マーク・ゴンザレスのアートワーク本やテリー・リチャードソンの写真集を初めて作った人。これらはほんの一部だが、それらのことを調べてもらえたら、林さんのインターナショナルな仕事ぶりが理解してもらえると思う。欧米の大都市に住んでいるならまだしも、日本にいながら日本人として、彼だけがなぜこのようなことができたのか。稚拙な文章でしか表現できないが、彼との出会いから書き記したい。

太めの黒いスーツに黄色のシャツ、白のエナメル靴に升酒。ヤクザ⁉︎ 詐欺師⁉︎ 僕が林さんに最初に会ったときの印象である。そのときの彼は、彼が作っていた(90年代の)モード誌然とした『DUNE』という雑誌のイメージとは程遠かった。お互いの紹介もそこそこに、半分酔っていたせいもあってか、おもしろおかしく雑誌や編集の批判をしながらくだを巻く。「ならず者」感が強い。当時、個人の意見をあまり言う人が少なかった日本。フランスから帰国して、日本での仕事のやり方に悩んでいた僕には、それは心地良く聞こえた。それが最初の思い出である(一緒にいたイギリス人のフォトグラファーと日本人の編集者は辟易していたが)。

その後、撮影も含め、色々と行動をともにするようになった。行く先々の飲み屋で出禁になる。パーティに出掛けては暴れ、酔った勢いで同業の人間にくだを巻き、迷惑を掛けまくるといった変人ぶりを披露。変人扱いされた彼の戯言。しかし、それは実際に的を得たものだった。彼の「ならず者」感は、ハンター・トンプソンの持っていたそれと同じであった。デタラメな世の中でホントのことを物申すには「ならず者」になって戯言を吐くことしかない。それを直感的にやっているのだと気付かされた。 インチキな世界では、まともな批判は誰の耳にも届かない。「ならず者」を演じることで伝え続けたかったんだろう。

実際に彼がハンター・トンプソンに憧れていたことは、本人も公言していたところである。通常のジャーナリストのように客観的に事実のみを書き伝えるような観察者でなく、取材対象の内部に自ら飛び込んでいく、トンプソンのような編集スタイルであった。日本での、所謂、ファッションやアートの編集者の中で優秀と呼ばれる人は、海外で流行っているものをいち早く紹介するか、同じくいち早くその流行を取り入れ、似たページを作ることが得意ということにプライオリティを置いている人が多い印象である(これは日本のギャラリーにもいえることだが)。もちろん林さんもそういったこともやっていたが、それ以上に、オリジナリティを持った世界でも活躍できるクオリティの日本の写真家、アートディレクターを育てることにプライオリティを置いていた。撮影だけでなくプライベート、彼らの悩みも含め、写真家とともに時間を過ごすような人であった。例えば、暴走族の撮影をする。仕込みから暴走にも付き合い、写真家と一緒に中に入り込み、撮影をし、彼の雑誌『DUNE』に掲載する。海外の編集者の目に触れさせ、写真家のみならず、その写真に写っている世界を海外に紹介する。多分、こういうチャレンジができるということは、彼の中に絶対的な美意識や確信があったからであろうと思う。そのあたりを顕著に表すエピソードがある。ソフィア・コッポラがまだ映画を撮り始める前で、X-GIRLやMILKFED.というブランドをやっていた頃。彼女が趣味で撮っていた写真を林さんが見て、写真を続けるように進言した。その後、写真家として『DUNE』の仕事も依頼し、彼女が写真を続けられる環境も用意していた。

90年代ガーリー写真ブームの一端を担ったソフィア・コッポラ。その発端を作った『BABY GENERATION』という展覧会を企画したのも林さんであった。実際にそこに触れた記事はどこにも書かれてきていない。本当に残念である(そういったことが、本業でもない僕が稚拙な文章を書かせてもらっている理由でもある)。僕が今、海外の一流と呼ばれる人たちと仕事をするときにも、自分の美意識を崩さずにいられること。そのベースになるものとして林さんが作ってくれた経験が大きい。それを含めて、話を進めていきたい。

その後、ソフィアが来日すると、林さんに連れられ、東京にしかない日本の美意識やアンダーグラウンドなカルチャーのある場所に、ソフィアと一緒に遊びに行った。それが映画『ロスト・イン・トランスレーション』のストーリーベースとなり(僕らも映画のキャラクターになっている)、実際に一緒に遊びに行った場所がロケ場所になった。そこは元々は観光的な要素のなかった所ばかりだが、海外から見た“東京らしさ”を表現している場所として、今では観光地となっている。

他にも、ハーモニー・コリンが彼の処女作『ガンモ』で初来日したときのこと。『ガンモ』撮影直後、『DUNE』用に彼をニューヨークで取材していたこともあり、林さんが彼の遊び相手となった。いつも通りお供で連れられ、クロエ・セヴィニーも一緒に来て、カラオケや買い物に行った。クロエが映画のスタイリングも担当していたので、そのときに買ったものを使って『DUNE』の撮影もした。映画の世界の延長上で、彼女のセルフスタイリングでの撮影をさせてもらったのだ。そんなスペシャルな撮影を組めるのも、彼しかいない。余談だが、ハーモニーがアラーキー好きなのは周知かもしれないが、そのときに二人を紹介していたのは林さんであった。

林さんが僕に彼らと会わせてくれたのは、ちょうど彼らと同世代のフランスの雑誌『PURPLE』で仕事を始めた僕がヨーロッパ的なことはわかっても、アメリカ的感覚を持っていなかったことを見抜いていたからだろう。ずっと一緒に行動をともにして、撮影したものをよく見てくれていたからこそ、そうした経験が僕には必要だと彼は感じていたのだと思う。全員の懐に飛び込む人でなければ、こういうことはできないはずで、これをやっても彼には全くお金が入るわけでもなく……。写真やファッションの世界の人たちには評価もされない。そんなことをやり続けられたのは、彼しかいない。だからこそ、他の誰もできないことができたのだと思う。

他の誰もやったことがないこと。こんなこともあった。『PURPLE』の編集者のエレン・フライスとオリヴィエ・ザムが初来日したとき、二人が僕に出したリクエストは「林さんとディナーがしたい」ということだけだった。その頃、世界中のファッションやアート雑誌でテリー・リチャードソンにレギュラーで撮影を依頼していたのは『PURPLE』と『DUNE』の二誌だけで、フォトグラファーだけでなく、新進気鋭のデザイナーもこの二誌が他誌に先駆けて取り上げることが多かった。所謂ゴージャスなファッションが終わりを告げ出した時代に、他にはないアプローチで始めた欧米では唯一無二の存在であった『PURPLE』と、言語が全く違う極東の国の雑誌が同じ方向を向いていることが、エレンとオリヴィエにとっては本当に不思議だったに違いない。

また、アーロン・ローズがニューヨークでアレッジド・ギャラリーを作り、既存のギャラリーではそれまではアートとして取り上げてこなかったマーク・ゴンザレス、テリー・リチャードソンなどを所属させた。そこに出入りしていたのが、まだ写真家になる前のライアン・マッギンリーである(今のSUPREME周りのアーティストたちの源流はここから始まっているのかもしれない)。今、この名前を聞けば、ギャラリーとして簡単にやっていけるだろうが、実際、あの時代にこのギャラリーで採算は取ることは不可能で、林さんがアーロンのバックアップをして、この新しいギャラリーの立ち上げを手伝っていた。そして、マークとテリーの世界初の本を林さんが作ることになる。スーザン・チャンチオロも所属しており、彼女も『DUNE』と『PURPLE』のサポートを受け、ソフィアとともに90年代ガーリーカルチャーの礎になっていく。その彼女を初めて日本に呼び、展覧会をさせたのも林さんである。

実際、90年代後半から00年代前半の日本カルチャー誌は、今まで挙げた人物が中心に取り上げられていたが、なぜか彼らをサポートしてきた林さんがその場所で活躍することはなく、林さん抜きで彼らが誌面で取り上げられていた。本来は林さんに仕事を依頼すれば、そのあたりのカルチャーは理解し易いのだが……。「ならず者」扱いされていて、日本では難しかったのかもしれない。 2000年を越えても同じような状況は続いた。彼が独自の視点で書いた『TOKYO LIFE』(2008年/RIZZOLI)の序文、これが90年代から00年代のファッションを総括していて本当に素晴らしい(これは実際に原文を読んでほしいので、あえてここでは触れないでおく)。

その前からリーマン・ショック、東日本大震災などで雑誌文化が衰退していき、雑誌の表紙、巻頭の編集ページですらタイアップの要素を盛り込んだものになっていくようになる。そうした中で、彼は一時、雑誌作りから、より作家を育てるという方向にシフトすることになる。「THE LAST GALLERY」という名前の小さなギャラリーは東京・白金の外れにあり、日本にある通常のギャラリーのやり方とは全く異なり、アーティストも抱えず、バッカーもなく、コレクターもいないところから始まった。アートやファッションが先の経済状況のためにマーケティングありきになっていく中で、グラフィティを中心にすることで、マーケティングとは反対のグラフィティに見られるケーヴアート的側面、プリミティヴアートとしてストリートから生まれたものが、本来のアートの世界に戻ることを予期していたからである(その間ももちろん写真のことは忘れておらず、本城直季や名越啓介の初の写真集を制作していた)。実際、現在のファッションの流れもSUPREMEを筆頭としたストリート寄りのものになっており、海外のアーティストやジェイソン・ディルともコラボレートしたブランド、HAVE A GOOD TIMEはこのギャラリーの二階から始まったのである。

そして今、2020年の東京オリンピック開催が決まったときから、ソフィアやハーモニーが遊びに来て海外のファッション、カルチャー誌がこぞって東京特集を組んでいたときのような東京ブームが始まっている。林さんが生きていたら間違いなくその中心にいて、新たな東京像を作っていたと思うが、彼はもういない。しかし、彼と関われた人たちがたくさんいて、彼の懐に入られた者たちが次の「ならず者」に育っている。林香寿美の『LIBERTIN DUNE』、山﨑潤祐の『FREE MAGAZINE』……。時代を見据えた鋭い洞察力を持って、デタラメな世界に戯言を吐き続けてほしい。


FUMIHIRO HAYASHI 1

FUMIHIRO PHOTOGRAPHED BY SOFIA COPPOLA


FUMIHIRO HAYASHI 2

DUNE MAGAZINE / 1996 SUMMER NO. 10


FUMIHIRO HAYASHI 3

FUMIHIRO AND KAZUMI ASAMURA HAYASHI AT SOFIA COPPOLA’S PARTY IN EBISU, TOKYO / 2008 / ©CHIKASHI SUZUKI


鈴木親
1972年生まれ。1998年に『PURPLE』にて写真家としてのキャリアをスタート。以降、イギリスの『I-D』や『DAZED & CONFUSED』、日本の『LIBERTIN DUNE』などの雑誌にて作品が掲載される。国内外のグループ展への参加や、個展の開催、さらに多数の出版物も発表する。