YUJI HAMADA

写真家 濱田祐史の視点。
INTERVIEW TEXT SHINGO ISOYAMA
写真をメディアとして「『見る』とはどういうことなのか、『見えない』とはどういうことなのか」という問い掛けを下に撮影、制作をする濱田祐史。2014年にはスイスのヴェヴェイのフォトフェスティバル「IMAGES」で展示、2015年にはフランスのエクスアンプロヴァンスフォトフェスティバル、ニューヨークのコンデナストギャラリーで展示を行い、また写真集『PHOTOGRAPH』がAPERTURE / PARIS PHOTO FIRST PHOTOBOOK AWARD 2014にてファイナリストに残るなど、国内外で活躍している。

今回、新作として発表する2014年に撮り始めたシリーズ『36 LIGHTS』は、1本の36枚撮りフィルムを撮影した時の流れのまま、編集せずにそのまま見せる作品群となっている。写真家が「観光」として訪れた土地毎に捉えた時間の流れを、観覧者がそのまま追い掛けることで、やがてそれぞれの写真と写真の間にある、写真にならなかった、目には見えないけれど確かに存在している物事がゆっくりと立ち上がっていく。また、ギャラリーで直接作品に向き合ったとき、この36枚の写真の始まりと終わりは曖昧になり、どこから見始めてどこで見終えるかが自由になり、そのループする空間で、我々の生活の中で留まることのない「時間」というものの不思議さを、改めて感じるきっかけになるかもしれない。

濱田は写真の持つ多様な可能性を、表現を通じて拡張する作品を発表し続ける。新作『36 LIGHTS』が写真によってあぶり出される存在と時間に迫った作品とするならば、去年PHOTO GALLERY INTERNATIONAL、POSTにて発表された『C/M/Y』は写真自体の内側と外側を横断した作品である。『C/M/Y』は、デジタルポラロイドの感熱紙を長時間、水に浸けることで写真の膜面が剥がれる特徴を使い、出力されたフィルムをシアン、マゼンタ、イエローの三層へと物理的に分解、それぞれの層を水彩紙の上に置き、再構成することで制作された。 イメージの重なり方や画層の増減による無限の組み合わせから成るこの作品から、写真の拡張していく可能性を見出すことが出来るだろう。

ここで公開するインタビューでは二つの展示会『C/M/Y』が催された際に収録した内容である。濱田の写真に対する姿勢、思考から浮かび上がる次の視点が垣間見えるかもしれない。


昨年開催された二箇所での展示は、外側の世界が如実に反映されていると思います。これら二箇所の展示はそれぞれどのようなコンセプトだったのでしょうか?
今回の作品二つの共通点は同じ技法にあります。銀塩ではなくデジタルを使っていて、共にプリントの表面に乗っているインクの重なりの変化から写真の一つの在り方を探った作品です。PGIでの作品展では、異なるイメージAとイメージBをそれぞれ分解した後、混ぜ合わせて色と形の変化を見ること、POSTでは、一つのイメージが分解した後に違う場所に重なってゆくことで色と形の変化を見ること、をテーマにした作品になっています。また、写真集においても単に作品を記録するための本ではなく、印刷技術も写真表現の一つのツールとして考え、オリジナル作品のテーマに本の紙の色、そして印刷を通して何度もインクを刷ることで、色や形の変化を見るという作品になっています。

個人的に印象的だったのは、PGIでの作品展示に関するテキストで「撮影から現像、プリントという過程の果てにある印画紙上の画像『写真』と、パソコンやタブレットの画面に見る『画像』、そのどちらもが『写真』と呼ばれるようになった現代」という言葉です。「画像」「写真」を画像と呼ぶその裏にはどのような構図があるのでしょうか?
僕の中では全体を表しているのが画像で、その部分の一つが写真とされているものなのかと思います。本当はカテゴリー分けする必要はないはずですが、僕の中で銀塩写真はプリントの内側のもの、デジタル写真はプリントの外側のものという印象を持っています。

展示作品を見るとそれぞれの作品の印紙に立体感や陰影がありました。この行為の意図を教えて下さい。
この作品はデジタル出力でありながら、物理的に分解したものを再構成しているので全て手作業です。その際に、一般的に写真は平面だと思いますが、このシリーズは、ある画層だけ飛び出したりすることがあり、展示会場のライトによって影が出来ます。それは写真が世界に飛び出そうとしているようにも見えます。空間と作品が循環する様に考えて配置しました。

フォーマットとしての写真にはどのような可能性がありますか?
今回の作品では、プリントの中の出来事だけではなく、外の出来事が凄く反映されています。シワが入ってしまったりと、ある意味、予定通りにはいきません。予想よりも乾燥して割れてしまったり、思ってもいないことが起きたりします。保存性においても、このオリジナルは30年経ったら真っ白になってしまうかもしれません。このこともこの作品の面白い所だと思います。生きている間に色が変わる。未来が分からない。生きている内にもひょっとしたら消えるかもしれない。見るということを通して、常に想像を与えてくれる可能性のあるメディアだと思います。

物理的に写真を剥がす行為は、正に外の世界での行為ですね。剥がしている時、どのような感覚でしたか?
初めて写真を剥がした時、怖かったんです。これは感覚的なことなのですが、写真が物理的に剥がしてゆくというのは凄く変で、時に不気味な感覚でした。これはPHOTOSHOPなどでは感じることがない経験だと思いました。

写真を剥がすという行為からも伺えるように、自分でも予想のつかない世界に飛び込んで行っているような印象を受けました。そういうものは、意外と身近にあるものなのでしょうか?
「この色とこの色が重なって、この色になるんだ」という当たり前の経験も、当たり前に分かっているけれど、目にしてみると驚いてしまうことがあります。こういう「単純が故に見過ごしていること」を再提案するというのが、僕の中の一つのキーワードとなっています。今回のプロジェクトを通して自身が発見したことの一つとして、例えば、作品のモチーフに選んだルービックキューブは、色を合わせて行くゲームですが、果たして全面の色を揃えることが答えなのか、ということです。そもそも、ルービックキューブってもっと遊び方って他にもあるのではないか。例えば、斜めに揃っていてもいいし、四角くオレンジになってもそれはそれでいいのではないか。

ある意味、規制のルールを拡張させる行為だと思います。濱田さんにとってルールとは、どのようなものでしょうか?
自分の作品のベースとして、どの作品にも共通する独自のルールみたいなものもあります。時々、作品毎に作風が違うと言われますが、それはモチーフや技術の組み合わせの変化で見た目が変わっていっているだけです。興味が変わればモチーフが変わりますし、写真は写真機という機械を使っているので、技術的な所の特徴よりは、何を見てどう考えて、構成して、制作しているのかという過程に自分のルールがあるのかもしれません。

プリントの外側を構成するものとして、ソーシャルメディアなどでの発信も存在すると思います。例えば、良いと思っていた写真が写真家の発言で歪んで見えてしまったりする場合などがあると思います。このような言説が作品の質感を作ってしまうということに関してはいかがでしょうか。
ソーシャルメディアだけではないと思いますが、言葉はとても大事です。作品をどう受け取ってどう想像するかは自由ですし、自分が思っていることと違っていて当然だと思っています。様々な解釈があって、逆に刺激をしてもらえることもありますし、またそうあって欲しいとも思っています。

あくまで「作品」ということですね。
作品? うーん、人間かな。もちろん言葉は注視していますが、写真に必要なのはズレていたり、何か人間臭い部分にあると思います。自分の中に無かった新しい物事が出て来た時、いつもワクワクしています。

誰もが気軽に写真を使えるようになりました。このことに関してはどのように考えていますか?
とても良いことだと思います。気軽に使えるようになって、良い意味で力が抜けているし、悪い意味では乱暴に思います。それも今の時代が一番写るドキュメンタリーなのかもしれません。出来れば、それをきっかけにして写真に興味を持ってもらえたら嬉しいとも思います。僕は撮影することと同時に、写真史や写真の技術などの歴史を加味して自分の感性を混ぜ合わせていくことが、写真家として作品を作ることだと思います。なので、大量にある画像は全く別のものと捉えています。また、エリック・ケッセルスの作品の様に自分が撮影せずに、その時代の膨大な画像を使った写真表現も出てくるということも必然だと思います。

最後に、濱田さんが心がけていることを教えて下さい。
見ることを楽しむこと、でしょうか。


YUJI HAMADA 1

『CUBE』(『C/M/Y』シリーズより/2015年)


YUJI HAMADA 2

『WATERFALL』(『C/M/Y』シリーズより/2014年)


YUJI HAMADA 3

『WATERFALL 2』(『C/M/Y』シリーズより/2015年)


YUJI HAMADA 4

『36 LIGHTS #01』


『36 LIGHTS #01』
会期:~7月27日(水)
時間:11:00~21:00(最終日は18:00まで)
会場:ROCKET 東京都渋谷区神宮前4-12-10 表参道ヒルズ同潤館3F