YUJIRO KOMATSU 1/2

FREEーTOKYO
ISSUE 8
PHOTOGRAPHY DAISUKE HAMADA
INTERVIEW TEXT RISA YAMAGUCHI
紳士的な東京パンク精神。

人は生まれてくる場所や親を自らの意思で選ぶことは出来ない。一説には、子供は親を選んで生まれてくるという話もあるようだが、人間が作り出した夢物語に過ぎないだろう。人は生まれてきた環境や地域、家系で大きく人生を左右されることは間違いない。子供の頃は周りの言うことに従わざるを得ないが、自分の意思を持つようになると、周りの環境によって植え付けられた固定概念と本来の自分との葛藤に悩み、苦しむことは誰もが経験したことがあるのではないだろうか。BLACKMEANSデザイナーの小松雄二郎もその一人だった。「やっぱり自分がある程度自分のままで、自分を続けていることかな」と話すように、たとえ批判をされたとしても、好きなことをとことん追求する強い信念があれば覆すことが出来るのだと、インタビューを通して語ってくれた。同時に、人生で一つだけ誰にも負けない信念やスタイルを持っていると人は強くなり、そして優しくなることも教えてくれたのだ。


どんな幼少期を過ごされましたか?

小学校の頃は集団イジメじゃないんだけど、イジメっ子な部分があって、そしたら小学6年生の時に「小松君、教室に来て下さい」って友達に言われて教室に入ったら、裁判所みたいになっていたんです。被告人席みたいなのがあって「そこに立って下さい」って言われて、「僕は何年生の時に小松君にOOされました」とか自分にイジメられた経験を一人ずつ言っていて、弁護士の家系なのに自分が裁判されちゃうっていう(笑)。その出来事がきっかけで皆に凄く嫌われてしまって、友達が一人もいなくなっちゃって。友達だと思っていた子もそっち側にいたりして。でもその頃にパンクというものに出会って、それをきっかけにイジメっ子じゃなくなったんですよね。孤独な時に出会ったモノって自分の中に深く入り込んでくるじゃないですか?


パンクを知ったきっかけを教えて下さい。

当時、テレビでアメリカの音楽だけを流している番組があって、それを兄貴と一緒に観ていたら、1983年頃かな? SEX PISTOLSが流れてきて、凄く格好良いと思ったんですよね。それからレコードを買ったり、お年玉を貯めてパンクの服が売っているようなお店に行ったりして、そこから本格的に「パンクの服って格好良いな」と思って。それ以降は小学生~中学生時代のお小遣いは全部パンクに注ぎ込んで夢中になって、いつもパンクのことを考えていましたね。もし、普通の状態でパンクに出会っていたらそんなに強い影響は受けてなかったかもしれないですね。パンクが自分の中に強く入っているから、最初の頃は、他の格好良いモノや素晴らしいモノは全部「駄目だ!」と思っていたんだけど、自分のスタイルが一つ確立されているからこそ、他のモノも素直に受け入れられるようになったんだと思います。


パンクファッションをそのまま真似するのではなく、やはり当時からどこかしら自分らしい何かを取り入れていたのでしょうか?

元々、昔からあるモノを新しくしていくことが好きで、パンクファッションが一時的に出来上がったモノだったとしても、自分はその時代のモノを今のモノに新しくするのが好きで、周りの人が見たことが無いようなモノを見て、感じて、喜んでくれたりするのが凄く嬉しいんですよね。それも結局自分らしくアレンジするっていうことになるから、これだけモノが溢れた世界だとしても、いくらでも自分なりにすることが出来るから、基本的に全て自分っぽくしないと気が済まなくて。椅子の表面を貼り替えたり、ギターを古く加工したり、スケボーを2枚掛け合わせたり。全部に対して「こうしたらもっと良いのにな」って浮かんで、人間が作ったモノだから、それを見た瞬間に作る工程も同時に考えてしまう癖が出来ていて。基本的に人間が作っているモノだから作れると思うと、経験が無くてもよく見たり調べればすぐに作り方が分かるし、そうすると楽しくて仕方がなくて。それを一個ずつ形にすることをずっと続けてる。10代の頃から人に頼まれたりして、新品のTシャツをバイクに紐を垂らして引きずったり、砂に埋めたりして加工していたんですよね。


昔から手先は器用だったのですか?

そうですね。母親が家庭科の先生だったこともあって、小学3年生くらいから靴下を使ったドラえもん人形の作り方を教えてくれて、やってみたらその後自分で勝手にフェルトでヤッターマンとか、当時好きだったキャラクターを綿を入れて縫いぐるみを作ったりしてましたね。中学生くらいになったらTシャツを破いたり、ミシンで縫ったりしていましたね。基本的にはカスタムするのが好きで、ただ格好良くしたいという思いが強かったかな。


お堅い家系に育ったかと思いますが、家族から批判されるようなことはありましたか?

ありましたね。だから17歳くらいの時に家を追い出されたんだけど、自分はパンクが好きだったから髪を染めたり、パンクの服ばっかり着てたり、普通の親から見てもとんでもないのに、家系が堅かったから余計にとんでもなくて、いつも隠れて家に帰ったりして会わないようにしてたんだけど、結局凄く怒られて。


傍から見れば東京都港区出身のお坊っちゃまだと捉えられて、特殊な環境で育っていると思われがちですよね。

自分自身はそれは分からないことで、25歳くらいになってからそういう所に住んでいること自体が実は、凄くコンプレックスなことで、パンクとかが好きだったりすると、その人達の背景が貧乏、っていうようなイメージがあるから。中学生まではどうしようもないんだけど、16歳くらいになって、新しい環境やバイト先にはそうしたエリアに住んでいること自体を隠したくなって。そこに住んでいるだけでお坊っちゃんっぽい言い方をされたりしますからね。だから、そうではない環境への憧れが強くて、だからこそ家を追い出された時はパンクファッションを思う存分楽しんで、自分の場合は「ブランド物を買いたい」というより、改造してこの世で一着しかないものを作ったりすることへの情熱が強かったですね。


小松さんにとって、東京とはどういった存在ですか?

自分はやっぱりここ(東京)にしか住めないというか、ある程度歳をとったら「地方に住みたい」とか言う人もいるけど、自分は一生東京にいると思います。実際、自分では気付かなかったんですけど、若い時は、原宿や渋谷を歩いているだけで、「あの人凄いな」と知らないうちに影響を受けてたんですよね。洋服とかを意識し始めるのって、一般的には小学6年生とか中学1年生位だと思いますけど、東京にいて普通に生活して歩いているだけで、地方の人達からすると簡単に手に入らないものを空気と同じように普段から吸っているから、色々な種類の人達がいて、パンクだけじゃなくて、アメカジやハイブランドを着ている人達や、ストリートっぽいラフな格好をしている人達でも、自分がチラッと見ただけで記憶に残るものは残って、残らないものは消えていく。自分にとってこれが当たり前のことだったんだと思いますね。


東京以外に憧れを持った都市はありましたか?

10代はほとんどロンドンでしたね。後は二十歳前くらいからアメリカが凄く良いなと思い始めて。イギリスのパンクばかり聴いているとちょっと暗い感じがして、自分もちょっと悩み込み易いタイプだからということもあると思うんですけど、退廃的というか、パンクの人達や道端にいる人達を見ていると、あまり未来を感じないような部分もあって。それがパンクの一つの要素でもあるんだけど、アメリカのパンクはもっとオープンで明るくて、同じパンクでも違う場所で生まれてるものだと全然違いますからね。


アメリカのパンクの象徴は何なのでしょうか?

音楽でよく知られているのが、BLACK FLAGやBAD BRAINSやRAMONESとかが有名ですけど。ロンドンはよりファッショナブルなんですよね。ボロボロの服を着ていても鋲を打ったりとか、お洒落をしようとするキザな部分があって、アメリカは粋な感じというか。短パンにTシャツというお洒落とは程遠い格好だったり。音楽のメッセージ自体の共通点は多いですけど、そういう部分で結構対比がありますね。パンクの人のファッションって格好付けていないように見えて、実際は最高に労力をかけて格好付けてますからね(笑)。だって服に鋲を打つのだって大変ですし。