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YUJIRO KOMATSU 2/2
FREEーTOKYO
ISSUE 8
PHOTOGRAPHY DAISUKE HAMADA
INTERVIEW TEXT RISA YAMAGUCHI
日本のパンク文化のルーツを教えて下さい。
個人的な印象ですが、1970年代の終わり頃からあって、都市部が中心だったんですけど、その都市 によって少しずつ違っていて、東京と大阪はそれぞれオリジナリティがあって、名古屋はロンドン直系みたいな感じ。都市部は情報も早くて文化も多いから、影響し合い易いんだと思います。例えばボロいパンツにしても東京だと素材や付け方が独自というか。80年代初頭にロックンロールとか竹の子族とかが流行っていた頃は、自分は小学生で、ロカビリーとかリーゼントの人達もいて、その後にヘヴィメタルみたいな人達が出てきて、大体流行っていたものが変わる時って一つ前のものをダサいと言い始めて、「今はこっちの方が格好良い」という人達が前に流行っていた文化を踏み台にして次の文化が始まる感じがありましたね。1985年頃は物凄くパンクが流行った時代で、その前に流行っていたロックンローラー達をダサいと言いながらも、ちょっとだけそれらをミックスさせながらも日本のパンクシーンは盛り上がってきていて、80年代って「新しければ良い」みたいな時代だったから、ニューウェーヴみたいな人達もいて、皆自分のスタイルを新しくて格好良いと思っている分、他のものに対しての批判が強くて。自分が中学1年生だった1984年頃、アメリカからスケボーの文化が入ってきて、ドッグタウンという有名なメーカーがスポンサーに付いているスケーターが中学校にいたりして、音楽の文化とかが凄く早かったと思います。自分はロンドンが好きだったけど、スケボーブームの影響でアメリカのパンクが好きな奴が同じ中学校にいたり、その時点で地方にいたらそういう情報は少なかったんだろうと思います。
今の東京のパンクシーンについてはどう思われますか?
今の現状は昔程、盛り上がっていないけど、パンクという文化とはいっても、一般の世界では表面的なファッション的な部分だけで取り入れられているというか。昔と比べたら今のファッションとしてのパンクはかなり確立されていると思いますね。一つのスタイルとして、専門学校でも教えてるくらいになったし。生活様式とかまでは教えてはないけど、パンクっぽくしたいと伝えるとスタイリストさんも服を集められたり、軽い感覚でスタイリングは出来ますからね。本物のシーン自体今も残っているんですけど、昔程はあまり表に出て来ないで、特定の場所に集まっているような感じですね。独特な民族みたいな感じで今も活動しています。私の印象では世の中的にパンクが一般に広まった大きな出来事は、1985年くらいにインディーズのパンクバンドとかがメジャーデビューして、全国に一気にパンクが広がって、その後は藤原ヒロシさんやUNDERCOVERなどの洋服のブランドがファッション方面で80年代後半頃から出てき始めて、近年で言うとハイスタでしょうね。パンクは本来コアで間口の狭いジャンルですが、分かりやすく噛み砕かれた間口の広い人達の登場によってその都度、一般の人達がパンクファッションに接する大きなきっかけになっていったんだと私は思います。
自分の服作りと東京という街の関係性はやはり密接だと思われますか?
それはあると思います。自分の世代は俗に言うチーマー世代で、中学生の頃になるとチーム(チーマー)が現れ始めて、自分の二歳上の先輩くらいから始まったんですけど、自分の周りはどこかに所属しているというより、実際は渋谷に地元の仲間が集まっているという感じで、自分としてはただ地元で友達と遊んでいた感覚で、自分が17歳の頃に原宿にあるパンクのお店で働いてたんですけど、周りの友達も原宿や渋谷の服屋で働いていて、お店が終わると渋谷に行けばいつでも友達がいる環境で、その時代はチーマーが全盛期の頃だったから、地方の人からしたら渋谷は凄く怖い街だったんだろうなとは思いますけど、自分は地元の友達がいるっていう理由だけで渋谷に集ってた感じでしたね。その時に、周りはアメカジや渋カジ的な格好をしている中で、自分だけパンクの格好をしていても、お互いのスタイルを認め合っているというか。二歳上の先輩からファッショナヴルなチーマーが始まって、自分達の世代もその流れで渋谷に集まって、次の何歳か下の世代になると自分から見るとちょっとお洒落な感じじゃ無くなってくるんですよね。よりギャングというか……。先輩や自分の世代までの渋カジに対しては「格好良いな」と思ってたし、あっちも「お前は派手だな」って言ったり、そういう感じだったから凄く自然というか。自分自身は全然不良じゃなくて、皆それぞれ自由に好きなスタイルで、お互いに自分のスタイルを押しつけたり的な強制も無くお互いの個性を認め合っていた時代でしたね。その時は気付かなかったんですけど、27歳くらいの時に石丸元章さんという薬物や、チーマーとかの世界を取材して、色々な怖い世界を見てきた作家の方とお会いした時に言われたのが「東京の中心出身というだけで、自ずと憧れられて、何も追わなくても良い状態からスタートしているからそれは凄く特別なことなんだよ」と言われて。その時に初めて納得させられましたね。後は、土地柄だけでお金持ちというイメージを持たれるんですけど、全然富裕層じゃない人も多くて、青山って団地もいっぱいあるし。家柄に差があるからといって、敵対関係とか全く無かったですね。
高校はどちらに行かれたのでしょうか?
仲が良かった中学校の友達は、ほとんど高校に行くという選択をしていなくて、自分も高校の一学期で辞めて、パンクのお店で19歳くらいまで働いて、そこで将来をどうしようかと考えた時に、モノを作ることが好きだったから洋服を作りたいと思ったんですよね。当時からパンクの世界はDIYとかカスタムをしている人達が沢山いたんですけど、自分としては革ジャンに鋲を打つのもクラストパンツを作るのも自分が一番上手いと思っていて、「誰にも負けない」と思っていたんですけど、どうしても一人だけ勝てない人がいて、その彼が革ジャンに手編みのニットが繋がったようなものを作ったりしていて……。でも、勉強とかしないと編み物なんて出来ないじゃない。そしたらその人が、文化服装学院という学校に行っていたという話を聞いて。その人に勝ちたいという気持ちもあったんですけど、革ジャンが好きだったから「そこの学校に行ったら自分で革ジャンとか作れるのかな」とも思ったりして。高校も卒業していないし、何もない自分から何が出来るかを考えた時に、その人に出会ったことが転機でしたね。そこに行くには高校卒業の資格が必要だったから、19歳から高校に通い直して、定時制高校に四年間通って。24歳で文化服装学院に入学したんですけど、それ以前に普通の学生としての学歴よりも色々なものを見たり、学んだりしていたから、普通の高校生活では味わえない経験をしてきたことが今の活動に凄く繋がっていると思います。
文化服装学院を卒業した後はどうしたのでしょうか?
卒業してすぐに20471120に就職して、そこには二人のデザイナーがいて、自分が変わっていたからか気に入られたのもあって、新人なのに入社直後にパリ行きのメンバーとしてコレクションに参加させて頂いて。企画で入ったんですけど、アシスタントというより、服飾の知識を超えたものを作る才能を買ってもらいました。最終的には自分のブランドを20471120の中で持たせてもらって凄く可愛がってもらったし、貴重な経験をさせてもらいま した。
そこには何年間いたのですか?
三年半くらいですね。その後は一年間くらいバイク便の仕事をしていました。アパレルが凄く嫌になっちゃった時期があって。20471120も凄く楽しかったし、得たものは大きかったんですけど、仕事内容が体力的にも精神的にもキツくて、アパレルの世界がディープ過ぎて、「もう逆のことがしたい!」と思って、ずっと室内に籠って作業していたから不健康で。日に当たる時間が全然無くて、その反動で一日中外に出るバイク便の仕事を選んだんですよね。でも一年間やってみて、やっぱり作ったり、服自体もやりたいなという気持ちが強くなってきたからその期間は凄く大切だったと思います。
そこからUNDERCOVERに就職をしたんですね。
はい。そのタイミングでUNDERCOVERからの話が来なかったら、まだそこまでの気持ちになっていなかったかもしれないですね。元々パンクが好きで、服に関しての知識もあったし、リアルなシーンも見てきて、それから文化服装学院に通って20471120に入って。そういった経験をしてきたから、コレクションもファッションの世界自体も結構好きになっていて、コレクションを観たり参加して感動して泣いていたりもしていましたからね。当時は少なくとも「パリでコレクションをやってるブランドには絶対入りたくない」と思ってたんですけど、そのタイミングで、UNDERCOVERがちょうどSCABというシーズンのコレクションを発表する時期で、自分が元々そのシーンのことに詳しくて、彼らが興味を持つ前の時点からその世界にどっぷりいた人間だったから。ハードコアのマニアックな部分をUNDERCOVERがコレクションで発表したということ自体が自分にとってもとんでもなく凄いことで。パンクの要素をあそこまで徹底的に取り入れて発表するのは「世の中のアパレルブランドでそこしかありえないんじゃないかな!?」と運命的なものを感じて、入らせて頂きました。
UNDERCOVERではどのような仕事を担当していたのですか?
生産として入社しました。デザインしたものを形にする裏方の仕事で、自分の意思が反映されることはほとんどないんですけど、デザイナーがデザインしたものを形にするのを手伝うという感じで、自分がいたUNDERCOVERの時代って、パリコレクション参加直後で、めちゃくちゃ大変だったんですけど、その大変さを超える程感動も大きくて。20471120のデザイナーさんは服作りよりもアーティスティックな才能がずば抜けている方で物凄く影響を受けたんですけど、ジョニオさん(高橋盾)はとにかく服が好きな方で、デザイナーとしても完璧な人というか。自分は元々パンクの世界にいて、ブランドでパンクっぽい服作りをしている人達を見ると、パンクの世界にいる人からすると馬鹿にしているというか、「偽者だろ」っていう感じで、当時は自分も見ていたからファッションの世界を知るまでは実は、全くUNDERCOVERに興味が無かったんですよね。でも、運命的な出会いをして、目の前でジョニオさんのクリエーションを見たら完全に価値観を変えられましたね。元々は、自分でカスタムをしたり自分の服を作ることが目的だったんですけど、専門学校に通ってからはレディスの服を作ることを覚えて。レディスのデザインの方がデザインが凝っていて、魅力的だなと思っていたから。自分にとってそれは凄く大きいことで、メンズだったら自分を想定して作るけど、レディスの場合だと自分以外の人を想定するからそっちの方が自由に発想出来るんですよね。専門学校に行く前は人に頼まれると面倒臭くなってしまったりで。自分のものは作るけど、他の人のものは作りたくないっていうのは仕事にならないですからね。だから自分以外の人の服を作れるようになったのは、専門学校でのレディスのデザインをする機会によって、仕事としてやって行くという気持ち的な部分は養えたのかなと思いますね。
UNDERCOVERには何年いたのでしょうか?
三年ちょっとです。20471120もUNDERCOVERも、共にずっと日本のOEMで仕事を受けてレザーを作っている会社があって、多くのブランドはそこの会社から革製品を作っていたんですよね。そこの会社とはずっと関係があって、UNDERCOVERを辞める時に連絡をしたら「うちの仕事を手伝ってくれないか」と言われて。でも会社が岐阜にあるから行くのが厳しくて、そしたら東京に事務所を作ってそれで「営業と革ジャンの加工をしてくれないか」と言われたんです。UNDERCOVERで革ジャンを古着っぽく加工するシーズンがあったんですけど、それが「凄く面白い」と言われて、元々工場は革を縫うことしか出来ないから、製品加工が出来る工場にして欲しいと言われて。既にその時点で1,500着くらいの加工の仕事が入っていて、そんな着数を一人では出来ないから、それを出来そうな人を探して、20471120にいた二人に声を掛けたんですよね。それが仕事として成立して、営業と加工の仕事をするようになって、行く行くは「自社ブランドもやって欲しい」と言われたんです。やるのであれば、世の中って革で服を作ると値段が高いし、リスクが高いから発想が限られるというか、「こういうことが革でも出来るんだよ」ということを提案出来るようにしたいと思って。普通のブランドでは出来ないような変わったもの、可能性を広げられるようなものを作りたかったんです。革ジャンって、デザイナーに対してこちらが最大限に出来ることを提案しないと一番安価な革を使って、黒で、シングルジャケットで、無難なことしか想像が付きづらいから、当初はデザイナーさんの想像を広げることを目的としてBLACKMEANSを始めたんです。
BLACKMEANSという名前の由来をお聞かせ下さい。
革のブランドは、例えば海外ではSCHOTTやLEWIS LEATHERS、LOUIS VUITTONとかは、その国から始まった歴史も含めて成立しているものが多くて、日本人が全く縁も所縁も無いような表面的な部分だけで、アメリカっぽいことやイギリスっぽいことをやったりすることに違和感を感じていて。日本で革といったら、江戸時代以前から作られていて、当時は国の制度で、人権的に迫害されていたような人達が築いてきた伝統が現代では物作りとして続いたまま現時点でも残っているなら、自分達はそれを受け継ぎたいと。ただ、自分達が依頼するだけではなくて「彼らと作っていくんだ!」という考えを持って。それが日本では負の歴史として隠されていたりするけど、実際は物作りの文化として誇れることなんだから、自分達が引き継いでいくという意味でこの名前にしました。でも日本語で表記すると大変なことになるから、それを英字にしてBLACKMEANSという表記にしました。
最後に、ご自身の分身ともいえるBLACKMEANSについて、もう少し詳しく教えて下さい。
実は、信念を持ってるとか、凄く拘りを持ってやっているという感覚はあまり無くて。きっと普通アパレルのブランドだったら「前回はこの形が売れたから同じような形を作らなきゃ」とか、前シーズンに売れたデータなどから分析して、MDが主となって企画すると思うんですけど、そういう進め方があまり得意ではなくて。あくまでも自分が「これ良いな」と思ったモノを作りたいし、新しいモノを自分で作りたいっていう思いが強いですね。自分のペースと世の中のペースって合わせようとしない限りなかなか噛み合うものじゃないですよね。もし自分が、もっと管理されている会社で、予算や売り上げを取らなきゃいけないという環境だったら自分は続けていけないタイプだと思います。逆にそれを出来る人に対して凄いなって尊敬しますし、でもそれはファッションだけでなく、ビジネスの世界では、とてもナイーヴなことだと理解はしているんですけど、自分はそっちの方が不自然だと思ってしまう所がありますね。わがままかも知れないけど、好きなものを作った上で自分の実力をもっと上げて、予算や売り上げの部分もカバー出来たら素晴らしいですよね。「俺は媚びない! 流されない!」とかそういう拘りは全くなくて、どっちもちゃんと理解をしていて、でもその中でどれだけ自分のやりたいことが出来るかっていうことに挑戦してる感覚はありますね。世の中が自分達のようなスタイルの服を着た人達で溢れ返ることは無いことは勿論分かっていますし、自分はたまたまパンクのルーツが好きなまま歳を重ねて、同じようなことが好きな仲間がいて、その仲間同士の中で、鋲を打ったり、色を塗ったりしたアイテムを友達と会う時に見せて「お前それやばいじゃん!」とか言い合っている10代の頃の感覚の延長線上に今もあって。今では、当時の仲間でそう言い合える友達は少なくなってしまったけど、今でも仲間と「これ凄いじゃん!」とか「こんなの見たことない!」っていう話をするのが楽しくて続けている所も大きいかな。それに自分達が良いと思ってきた物を一般の人達と共感出来たらそれは凄く嬉しいことですね。
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