ASIA & ASIAN / MASAAKI TAKAHASHI

ジャワ島ノンシャラン道中記。/高橋正明 3/4
ISSUE 4
久生十蘭という作家がいた。1957年に亡くなったが、推理物、時代物から戯曲まで多ジャンルの作品を残した。博識、ストイックで彫琢した文体、フランス留学、演劇、コスモポリタンの香りとモダニズム……。彼が活躍した雑誌やジャンルは通俗小説とみなされ、その同世代の作家の多くが忘れ去られている中で、60年後の今も読み継がれているのはコアなファンの水脈が連綿とあるからだろう。

十蘭は海軍の報道班員の一人として、1943年の2月24日から同年9月9日までインドネシアに派遣された。所謂「南方徴用作家」である。当時日本では、ナチスドイツでの「プロパガンダ・コンパニーエン」活動を真似て、作家、画家、写真家、映画人など、様々なジャンルの文化人を大量に徴用し、日本の各占領地に送って戦争プロパガンダに一役買わせていた。作家は林芙美子、吉屋信子、佐多稲子ら女性作家も含めて約70名がこの活動に参加した。彼らは戦中また戦後に、各地での経験を作品に纏めている。

十蘭は身辺雑記の類いを全く書かず、自己を語ることのなかった作家だが、2004年に遺品の中から「従軍日記」が発見され、出版された。素顔の十蘭が垣間見られることになった。彼は当時42歳。前年に結婚したばかりの20歳下の妻と東京・高樹町のバス停で別れてから、羽田から空路で福岡へ。そこから那覇、台北、マニラと経由して任地インドネシアのセレベス島からジャワ島、また周辺地での生活、さらにニューギニアを経て、前線基地アンボン島での航空隊の様子を描いたところで中断するように日記は終わっている(滞在中に一ヵ月ほど行方不明の期間があったとはいえ、彼は無事帰国し、戦後も作家活動を続けた)。

この「従軍日記」は不思議な魅力に満ちている。特にその前半のバタバタした、無為でやや退廃的な生活を読むと、タンジールへ逃避したポール・ボウルズの『シェルタリング・スカイ』や、中東の生活に取材したロレンス・ダレルの『アレキサンドリア・カルテット』四部作を彷彿させる。これらは非西欧に生きる西欧人の右往左往がある意味での題材にもなっているが、十蘭の日記は、当時のマニラを皮切りに蘭印と呼ばれた旧オランダ領のインドネシアで、軍事的社会的に多層なアジアの混乱に絡め取られた日本の文化人の記録である。そこで彼が見た、失われたアジアの幻景、都市や建築を読み取り、また想像するのは興味深い。現地での彼の暮らしぶりは現在の我々には自堕落で不道徳にも見えるが、当時の平均的な日本男子の価値観の枠内のものとしてごく自然なのだろう。

二十代の始め、十蘭は『函館新聞』の記者になる前年、函館の中村建築研究所に勤めていた。中村とは中村鎮。1921年の函館大火を教訓に、独自の鉄筋コンクリートブロックを開発し、その分野での先駆者とされる建築家だ。その事務所で十蘭がどんな仕事をしていたのか、建築への興味はどうだったのかは全く分からないが、「従軍日記」では訪問する先々で見る都市、街路、ホテルや邸宅など、建築について彼なりの感想を述べている。

1943年3月4日、十蘭を乗せた輸送機「伊勢号」は低空飛行し、赤レンガの都市を窓に映しながらマニラに着陸。今の我々にとってのマニラはスラムのある大都市で、享楽と環境汚染などがある雑駁なイメージだろうが、かつてのマニラは東洋のパリ、ロンドン、マドリッドにも例えられ、同じ東南アジアでもその美しさは、香港、クアラルンプール、シンガポールを凌ぐものだった。20世紀初頭から第二次大戦前まで、独、西、米、英、仏、露からの移民とそのカルチャーが流入して都市形成に影響。素晴らしい建築もたくさん建てられた。例えば、当時珍しい全館空調の豪華な大型商業施設、クリスタルアーケードが1932年に開店。十蘭の記述には登場しないが、彼が来た時は、日本の鉄道局や観光局となっていた。

十蘭が早速向かうのは海軍の社交クラブ、水交社だ。「日本の常識をこえた立派な建物」の豪奢ぶりに彼は上機嫌となる。部屋は、「30畳くらいのロビーに安楽椅子などを豊かに据え、それが寝室と浴室につづく」。戦前は一流のアパートだったと書き留めて得心している。日本では想像もつかない建物で「風景建物、みな美し」。翌日には早々とセレベス島に渡り、二日後にはスラバヤに着く。「オランダ人、英米人の居住区域の建物一見美しく見ゆ。しかし、よく見れば皆同じようなフラットにて借家なりと思わる」とある。このあたりからドタバタの移動生活が始まる。従軍作家の仕事の規制は緩かったのか、仕事らしい仕事もせず、それでも「呑む、打つ、買う」だけは絶えない。日本人、インドネシア人、オランダ人、フランス人、ドイツ人、イタリア人、様々な人種の坩堝の中を動き回り、ほとんど毎日飲んだくれているように見える。日本食を食べ、バーや娼家を訪ね、ビリヤードに興じ、外国映画を観て、買い物をし、また飲んだくれる。とうとう、本人もうんざりし、日記を書く意味を自問し出す。移動する先で、ガムラン音楽や影絵芝居のワヤンなど現地の文化に触れるプログラムが用意されているが、義務として参加している風で、さしたる興味は示さない。仏跡として知られたボロブドゥール遺跡を見ても彼にはあまり感慨はない。

当時「ジャワのスイス」と言われた町、セレクタにも十蘭は立ち寄った。海抜千メートルを超え、高く涼しい。前の統治者であるオランダ人達が造った避暑地だ。1928年に建てられ、当時もオランダ人が所有していたセレクタホテルに滞在。「崖の端に建てまわした宏々たる」美しい建物で「ジャワ、就中中東インド方面で有名」。真向かいにコニーデの均整とれた姿の山があり、ヤシの木も少なく日本の田園風景を思わせた。十蘭はその眺望の美しさを水墨画に喩えている。この眺めは現在でも当時のままらしい。

一週間後、ジャカルタに到達。ジャカルタは、当時のモダン建築の実験場ともいえる都市で、戦前には多くのオランダの建築家が活躍している。彼のホテルは、デス・インデス。1829年に建てられ、幕末には榎本武揚らも滞在したという、白亜の三層に赤い切妻屋根を冠した美しい建物だ。「これが世界一流のホテルということを聞いているので、ここへ泊まるというだけで仲々いい気持ちである」と十蘭は書く。大勢のヨーロッパ人逃亡者たちが1945年頃までここを避難所としていた。建物は1971年に解体され、跡地には現在ショッピングモールが立っている。

三日後、世界中の珍奇な植物を集めた、有名なボゴールの植物園と、その地のかつてのオランダ人総督の豪壮な官邸を見て十蘭は興奮する。官邸の庭には日本から持ってきた鹿が放し飼いにされ、奈良公園の真似をしているようだと皮肉る。一ヵ月ほど経て、高原の町、サランガンに着き湖畔のホテルに投宿。湖畔は十蘭にとって最もお気に入りの空間なのだった。ようやく腰を落ち着けて仕事ができそうだと思うのだが、そうもいかない。州の長官から気に入られ、しつこく付き合わされる破目に。カラ騒ぎは終わらない。

ここまでが日記の1/3である。これまでがカラーだとすれば、そこから先の前線へ移動する後半の旅は一転してモノクロに変わる。

徴用作家や前線から離れた所にいる人々は現実を知らず、微睡みの中にいた。その間の日本ではジャズなどの英米音楽は禁止され、竹ヤリ訓練が開かれ、街灯、彫像、エレベーター、球場の座席まで金属は供出され、ゴルフ場は空爆を想定し防空用地や菜園に変わった。南方の戦線や権益圏も次第に押し戻されようとしていたのである。この時代、日本人は東南アジアに何を見たのか。ヨーロッパの文化の威光、都市文化や建築などの様相に驚きながら、間接的な西欧体験をし、それに追い付けてないという実像は見えたのだろうか。

十蘭が日本に戻って一ヵ月後、明治神宮外苑競技場では学徒出陣壮行会が開かれ、激しい雨の中を制服の青年達が行進した。十蘭は従軍経験を基に作品を書き始めた。日本が降伏したのは、十蘭の帰国から約2年後であった。

南方の日本は西欧の築き上げた文化に何ら加算することもなく、長期滞在者のように数年で去って行った。軍国日本は東南アジアと同盟することを謳い、またその資源を期待していたが、目論見は成功しなかった。現在日本の対総輸出額の第1位はアメリカではなく、アジアとなっていることは言うまでもない。


参考文献
久生十蘭『久生十蘭「従軍日記」』(講談社)*本文の引用は同書からのもの。
神谷忠孝・木村一信編『南方徴用作家』(世界思想社)
小林英夫『日本軍政下のアジア』(岩波書店)


高橋正明
ライター、キュレーター。オランダの建築誌『MARK』、デザイン誌『FRAME』の他、国内外の雑誌に日本の建築、デザイン、アートを紹介する記事を執筆している。主著に『建築プレゼンの掟』(彰国社)、『建築プロフェションの解法』(彰国社)、『DESIGN CITY TOKYO』(WILEY-ACADEMY PRESS)、『次世代の空間デザイン』(グラフィック社)など。東京生まれ、独・英・米で学ぶ。