HELMUT LANG

ヘルムート・ラング。一つの物語。
TEXT YUSUKE KOISHI
「人生は螺旋を上がっていくようなものだ。どこに立っていようと、どこを見ようとしても、前に進む限り風景はいつも違って見える。後ろを振り返ると、以前と同じ問題を扱っていることに気付くけれど、以前とは全く違った角度からそれが見える」
『ウォール・ストリート・ジャーナル』2015年1月のインタビューより

「ラング」と聞いたら誰を思い浮かべるだろうか。K.D.ラング、あるいはフリッツ・ラングかもしれない。しかし、ファッションに関わる多くの人にとってそれはオーストリア人の「ヘルムート・ラング」のことではないだろうか。2005年に彼がファッションの世界を去ってから10年。その後、同時期に活躍したマルタン・マルジェラと合わせて、90年代の“逝きし世の面影”を懐かしむとき、そして創業者不在のブランドの行く末を議論する上で、必ず話題になる人物だ。

2007年の初夏にニューヨークを訪れる機会があった。それはちょうどヘルムート・ラングがファッションデザイナーを辞めてから2年が経過した頃だった。薄茶色に染まったマンハッタンの街に立つと、ふと彼のスタジオがソーホーにあったことを思い出しGREENE STREETを歩いた。通りから見上げた何の変哲もないビル、そこにかつて存在したデザイナーのアトリエは、ヘルムート・ラングという“アーティスト”のスタジオに変わっていた。人に知られることなく、その場所に一つの時代を築き上げた人間がひっそりと佇んでいること、四角い箱のような無機質な建物の中にひっそりと歴史が潜んでいるという事実を実際にそうやって目にすると不思議な感じがした。西に沈んだ太陽の日差しに照らされたストリートを見渡し、この乾いた茶色の街を歩く人々を眺めると、その大半がこのオーストリアから来た異邦人のことを知らずに生活しているにも関わらず、その内の何人かの装いにはラングの痕跡が残っていたことに気付いた。ヒーローという言葉が彼に適切かどうかは正直なところわからないが、こういうときにヘルムート・ラングの名前を時折思い浮かべることがある。あえて名前を上げないが、実際、彼が作ってきたものがこの世界になければ、現在活躍している相当数のファッションデザイナーは存在しなかったかもしれないからだろう。

彼の制作拠点は今現在、ロングアイランドのイーストハンプトンという街にある。そこは全米の成功者が集う別荘地である一方、数十年の間、多くの作家やアーティストが過ごしてきたことでも知られている。その街は、アメリカ現代美術という言葉が生まれる前後の黎明期、ペギー・グッゲンハイムやベティ・パーソンズに見出されたジャクソン・ポロックがドリッピングやポーリングの手法を確立し、交通事故でその一生を閉じた場所でもある。

ヘルムート・ラングは1956年の春、オーストリアで生まれた。少年時代は人里離れた山奥で育ち、10代の内にはすでに両親と別離しウィーンで自活を始めていた。ハプスブルク王朝の名残があるウィーンの街は、モーツァルトを産んだ音楽の中心地であり、ジークムント・フロイトが精神分析を打ち立て、グスタフ・クリムトやエゴン・シーレが活躍した場所だ。こう聞くと華やかに思えるが、ウィーンに一度訪れると、そこに漂う独特の空気を感じることになる。ドイツ語圏独特の緊張した空気、そしてわずか50km離れた先にあるスロバキアの国境を乗り越えてどことなく漂ってくる東欧の風。それはパリやロンドンとの距離を十分に感じさせ、夜の街角で輝くネオンの光は郷愁を誘う。

「本当はアーティストになりたかった」と時折、ヘルムート・ラングはインタビューで語っている。彼がデザイナーになったきっかけは、自分で作って着ていた服が友人の間で評判になり、結果として服を売ることで生計を立てることになったからだという。「ファッションデザイナーになることを全く考えていなかった」と話す彼の言葉は、彼がブランドを創業した、まだ冷戦中の70年代後半の風景を想像しながらウィーンの街並みを眺めれば、次第に現実味を帯びて響いてくる。

アーティストになりたかったと語っていたヘルムート・ラングは、1998年、ウィーンで行われたアートフェアにて敬愛していた彫刻家のルイーズ・ブルジョワ(1911~2010)とコラボレーションを行い、その後ニューヨークにスタジオを移し、彼女と交友を深める。7年後には自らが育てたブランドをプラダに売却。1年間の活動休止の後、彼はアーティストになった。アーティストになりたかったと語っていた一人の人間が、ついにアーティストになったのだ。

その四年後。『MAKEITHARD』と題された2011年の個展で、彼は新しい彫刻の連作を発表した。そこで発表された一風変わった柱のような塊は彼の過去の「断片」から生まれたものだった。その作品には、生前のルイーズ・ブルジョワが彫刻を始めたばかりの彼に語り、今も彼が時折引用している「素材はただ素材として、あなたに尽くすために存在している」という言葉の影響が色濃く残っていた。

2010年、彼のソーホーのスタジオで火災があった。その場所に保管していた約6,000から8,000着にのぼる約30年間に渡るコレクションのアーカイヴは幸いなことに無傷で残ったが、火災の後、彼はそれらを産業用シュレッダーにかけてすべて破壊し、新たな作品の材料としてその断片を再利用した。ギャラリーの無機質な空間に置かれた、複雑な質感の柱のような塊は、断片になってしまった服を石膏と塗料で固めた彫刻作品だった。そこにはヘルムート・ラングが作った服に宿っていた、ミニマルで野性的な感性が確かに存在し、それが写真からでも否応なしに伝わってきた。「自分は過去のレガシーのゴールキーパーになりたい訳じゃない」という自身の言葉を裏付けるが如く、その後も彼は着々と制作や展覧会での発表を続けている。今年1月にもSPERONE WESTWATER GALLERYで開かれた個展で彫刻作品の連作を発表したばかりだ。

2013年の暮れ、筆者は当時関わっていたプロジェクトのためにニューヨークを訪れた。その際、唐突な思い付きだったがヘルムート・ラングの事務所にコンタクトを取ってみた。彼のマネージャーからは「今はアーティストとして活動しており、ファッションと関連したプロジェクトやメディアからはできるだけ距離を置いている。ただし、やや例外的にちょうど今、作品として絨毯を作っている。完成したら連絡する」という返事があった。この黒い塊がそのときに話していた作品だ。この絨毯はこれまでに彼が制作した作品をモチーフとして作られた立体作品の一つである。HENZEL STUDIOと共同制作したこの絨毯の作品は、今実際に購入できる、ヘルムート・ラングが生み出した唯一のプロダクトともいえる。

「職業は何ですか?」というありきたりの質問に対して、寺山修司は「私の職業は寺山修司です」といつも答えていたらしい。おそらくヘルムート・ラングもこのエピソードを気に入るのではないだろうか。結局のところ、生きるということはその人自身の小説を書くことに似ている。人は自らの生き様が作り上げることに支配され、それが現在と未来、そして過去を再帰的に決定付ける。その人物が有名であるにしろ無名であるにしろ、人はその人自身でしかありえず、創り出すものはその人自身の文体から生まれ、それは未来の文体を作り出す。ヘルムート・ラングとは西欧の東端から生まれた、その人のその人らしい一つの物語である。トレードマークの長髪を剃り上げた今も、そしてこれからも彼はヘルムート・ラングであり続けるだろう。


HELMUT LANG 1

HELMUT LANG "UNTITLED", 2013
HAND KNOTTED RUG, WOOL & SILK, 150 KNOT. FREE-FORM, SELECT AREAS MADE WITH 3, 5 AND 8 MM PILE HEIGHT.
COURTESY HENZEL STUDIO.
€8,635 AVAILABLE AT FROZENPALMS


HELMUT LANG 2

HELMUT LANG 3

HELMUT LANG 4

HENZEL STUDIO: COLLABORATIONS / HERITAGE. EXHIBITION AT AUSTERE, LOS ANGELES. JUNE 11 ‒ SEPT 14, 2015.
WALL (LEFT TO RIGHT): MICKALENE THOMAS, CANDY CRUSH (2013) / HELMUT LANG, UNTITLED (2013) / RICHARD PRINCE, 123-456-78910 (2013).
FLOOR (LEFT TO RIGHT): SCOTT CAMPBELL, LONELY (2013) / MARILYN MINTER, CRACKED GLASS (2013) / JACK PIERSON, AUTOMATIC DRAWING (2014).
COURTESY HENZEL STUDIO


SPECIAL THANKS TO
JOAKIM ANDREASSON AT CULTUREEDIT.
HELMUT LANG STUDIO
SPERONE WESTWATER GALLERY
HENZEL STUDIO
CULTUREEDIT