INTERVIEW WITH FUMIKO IMANO

夢見る少女でいいじゃない?
INTERVIEW TEXT RISA YAMAGUCHI
「この間、若い子と喧嘩をしたんです。そしたら『YOU MAKE NO SENSE』みたいなこと言われたから『BECAUSE I’M A DREAMER』と言ったらその場がシーンとなりました」少女のようなあどけなさで、笑いながら話す彼女こそアーティストのFUMIKO IMANOだ。知る人ぞ知るアーティストと言っても過言ではないだろう。インタビューの最中に「写真が嫌い」「何度もやめたいと思ったことがある」という、“思春期”特有の反抗期を何度も迎えているようだ。「夢を見なくなったら終わりだと思う。夢を見て、実現して、それを見た人達が『私も頑張ろう!』と思って夢の連鎖みたいになったら良いなと思います。勿論、常識的なことはMAKE SENSEするけれど、こういう職業をやっていて、ある意味、自分の中でMAKE SENSEしたことを他の人がMAKE SENSEしちゃうと面白く無くなっちゃうと思うんですよね」。

彼女とは約四年前に偶然、水戸芸術館で出会ったのが最初の出会いだった。一緒に来ていた友人がフミコさんと知り合いだったこともあり、皆で近くの喫茶店に移動し色々な話しをしたことを今でもよく覚えている。彼女はその時、仕事で日本に来ていたスタイリストのハネス・ヘッタと共におり、初対面にも関わらず気さくに紹介してくれたのだが、当時の私は雑誌の編集者ではなく、彼女が誰なのか、一緒にいた人達が何をやっているかも全く知らずにいたのだ。セルフポートレイトをメインに何十年も一人で写真を撮り続けている彼女の葛藤はきっと計り知れないだろうが、今も変わらず写真を撮り続け、数年後、こうしてインタビュー出来たことは奇跡なのかもしれない。トレードマークでもあるヴィンテージのワンピースをさらりと着こなす“少女”の謎に満ちた日常や人生観は勿論、LOEWE2018年春夏シーズンの『PUBLICATION#17』のヴィジュアル写真を担当した経緯や撮影当日の状況なども尋ねてみた。


どんな幼少期を過ごされましたか?

父の仕事の都合で、2歳から8歳までブラジルのリオデジャネイロ(以下リオ)に住んでいたので、真っ黒に日焼けしていました。気が付いたらブラジルにいたので、まだ日本がどんな国かも分からず、「リカちゃん人形とキティちゃんが沢山いる国だから行きたいな」などと漠然と思っていました。リオに住んでいた頃はアマゾンの近く、ぺルーやアルゼンチンなど色々な所に連れて行ってもらいました。幼かったですが、とても良い経験だったことを覚えています。現地の幼稚園に通っていたのですが、小学校はリオの日本人学校に通っていました。私が少し行動が遅かったのが原因で、現地の日本人学校に入学した途端にイジメられました。そこで初めて日本人社会を経験しましたね。日本に帰国後も、その頃海外に旅行をすることがポピュラーではなかったので、しかもブラジルなんてどんな国かも皆知らないですし、結構イジメられました。なので「自分は何なんだろう?」と考えさせられた幼少期を過ごしました。母に「大学には出て欲しい」と言われたので、大学までは地元・茨城の学校に通いました。ずっとアートの勉強をしたかったので、その後セントラル・セント・マーチンズ(以下CSM)のファウンデーションコースに入ったんです。


写真との出会いをお聞かせください。

CSMに入学出来たのですが、英語がよく分からなくて、どうしようかと思っていました。皆の前で「何かをやるしかない」と思い、パフォーマンスアートを披露したんです。そうすると喋らなくて済むので、自分のお葬式をやったりしました。私が眠っている周りで友達に黒い服を着て座らせて、「フミコはどんな子だったか?」と友達に聞いて録音した音源を流したり。そういう激しいことをしていましたね。写真に関しては、折角ロンドンに行ったので思い出写真として撮っていました。前から写真は何となく撮っていたのですが、それほど意識せず、白黒の写真に興味を持って、自分でプリントをして暗室にこもっていました。BAの一年生に入った時、スカルプチャーをやりたかったんです。それまではファインアートや写真コースなどが分かれていたのですが、その年から統合してしまったんです。「どうしよう......」と思い、とりあえず髪の毛でドレスのスカルプチャーを作って、男の子に着させて、写真を撮ったりして、そこからファッションとかにも興味を持ち始めましたね。


その時に使っていたカメラはどんなカメラだったのでしょうか?

父が40年前に全ての給料を叩いて買ったカメラがあるのですが、それを見付けて持っていきました。「やっぱり一眼は違う!」と当時は思いましたね。でも露出計とかが全て壊れていたので、適当にしか写らなかったんですけど。最初はファインアートのコースに行きましたが、自分の中で凄く悩んでいて「アートは分からないし、お金にもならない!」と思い、ロンドン・カレッジ・オブ・ファッションのフォトグラフィーコースがあると聞いたので、そこに移りました。そこでフォトグラファー・デュオとして現在も活躍中のショーン&センに出会って意気投合して、一緒に作品などを作ったりしていました。私は写真を撮りたかったのですが、ファッションフォトをやる為には結局誰かに頼まなければいけなくて、モデルやスタイリスト、ヘアメイク、お金が無いのにプリントを上げなければならないし......。自分の中で凄く葛藤がありました。他の人達と作品を作り上げても、自分の作品では無くなるという恐怖がありました。やってはみましたが、やはり合わなくて......。その時に「あ、全部自分でやればいいじゃん」と思ったんです。自分がモデルでスタイリングして。そうして今の形が生まれて結局「アートに戻りなさい」と先生に言われました。


改めてセルフポートレイトを撮ろうと思ったきっかけをお聞かせ下さい。

自分が大嫌いで、凄くコンプレックスが多いんです。そうして自己確認を始めたのがきっかけかもしれません。ロンドンに行った時に「アジア人だしフォトジェニックな顔だね」と言われて、そしたら自己確認をしたくなったんです。「自分はどういう風に写るんだろう?」って。それが面白いかもと思って、『I-D』とか他の雑誌にもアジア人として載ってみたいと思うようになりました。ロンドンにUGLYというモデル事務所があるのですが、個性的な顔の人達が集まる事務所で「登録したいです」と直接言いに行ったこともあります。有名になりたくなりましたし、雑誌にも載りたくなりました。自己確認をしているとセラピーになってくるというか、凄く悩んでいても写真を見ると「大丈夫じゃん、自分」と思えたんです。


そこからどのようにして双子の作品が生まれたのでしょうか?

ロンドンから日本に帰る前に、たまたま左に写った自分の写真と右に写った写真があって、「あ! 双子になった!」と思ったんです。その時は全然気にしていなかったのですが、帰国後、あまりにもギャップが凄くて......。ロンドンでは出来ていたことが、日本の常識では通じないんだと知りました。後は帰国した時が27歳くらいだったので、大人の対応を求められたり、日本ではこうしなきゃいけないなど、様々なことがプレッシャーで。その中で、双子のことを思い出したんです。もう一人の自分がいたらこんなことくらい笑い飛ばせることが出来るんじゃないかと思いました。永遠の子供でいたいというか、現実の自分と非現実的な自分というか。なので、双子は出来るだけ元気な感じで撮ろうと心掛けています。どうしても撮りたいシチュエーションで、三脚など何もない時の緊急事態は、通行人に声を掛けて、「ここからこの角度で撮って!」とお願いする時もあります。


話しは変わりますが、現代のフォトグラファー達についてどう思いますか?

若い子達はやっぱり何処かで見たことがあるような写真を撮っていると思います。彼らは無意識だと思うし、ネットで検索することが癖だと思います。私達が90年代、ネットが無く過ごしていた時代に本屋さんで見ていた写真とは違いますし、何十年分の良いモノが知れるので、どうしてもコピーになってしまうと思います。作り上げられてしまったモノなので、何時の時代でもそうですが、特にこのインターネット時代にオリジナルのアーティストやフォトグラファーを見付けるのは凄く難しいと思います。皆が似たような写真を撮れますし、チョイスの幅も広がるし、その中からオリジナルを見付けるのは難しいですよね。否定的にならないでポジティブに考えればその中から面白いモノを作れたら良いですよね。20歳くらいの時は「このアーティスト超好き!」という人もいましたが、今はもういないですね。私が90年代の終わりにロンドンにいれたのはラッキーだったと思います。物凄く良い時代でした! インターネットが普及する前のフォトグラファーの写真や、スタイリングなどが好きでしたね。ネットで汚された部分は随分あるかと思いますが、良くなったこともあるのでしょうね。


今現在、フミコさんご自身が一番やりたいことは何でしょうか?

何だろう(笑)。私って何が一番好きなんだろう......。写真を撮り初めた時はいいけれど、続けると絶対に嫌いになるんですよね。そこでまた頑張って続けるのですが、やっぱり嫌いになるんです。写真やアートに対して持つ皆の固定概念が嫌いなんです。結構嫌いなことが多いです。型にはめられるのが好きじゃないのかもしれないですね。好きなのは料理かな......。海外に行くのが好きで、飛行機が大好きです。小さい頃によく乗った経験があるのでロマンがありますね。夢があることは好きです。


LOEWEの『PUBLICATION』撮影を行うきっかけをお聞かせ下さい。

M/M(PARIS)(以下M/M)のミカエル(・アムザラグ)から連絡が来たんです。友達のクラスメイトがミカエルの弟と学校が一緒で、2001年頃に初めて会う機会がありました。当時、イエール国際フェスティバルに行って、写真の展示があったのですが、そこの審査員がM/Mで、たまたまそこでも会って、何年後かにパリでビョーク達といる時にも会って、SNSなどでは繋がっていました。そしたら急にお話が来たんです。M/Mと何かをやることが夢だったので嬉しかったです。LOEWEのショーは毎年パリのユネスコで行われるのですが、何故かというとLOEWEが修復にお金を出していて、毎回ショーの前日に『PUBLICATION』の撮影を行うみたいなんです。撮影場所がいつもユネスコと決まっていて、ミカエルから「双子で撮影をしたい」と言われており、「モデルはサスキア・デ・ブロウで撮影する」ということしか決まっていませんでした。なので、パリに行ってから色々知ったという感じです。ユネスコに下見に行って、「フミコは何処で撮りたい?」と言われて、「どこで撮ろう?どうしよう」と悩み、一晩でどういう風に撮りたいかなどを考えて提案したらすぐに「OK!」となりました。撮影当日にM/Mとスタイリストのベンジャミン(・ブルーノ)など皆で集まって、「このルックはどうする?」みたいに話して、どういうストーリーにするかを決めました。ミカエルとマティアス(・オグスティニアック)(M/M)は「本当にフミコはどうしたい?」というスタンスで、凄く私の意見を尊重してくれたので、彼らに見守られて撮影が出来たのが凄く楽しかったです。


撮影を終えた率直な感想をお聞かせ下さい。

正直に言うとちょっと報われた感じがしました。初めて待ち望んでいた仕事が来た感じでしょうか。凄く光栄なことですし、M/Mが私を選んでくれたことも嬉しいですし、デザイナーのジョナサン(・アンダーソン)も含め皆さん凄く良い対応をして下さいました。ここまで来るまでに色々な人と出会って、今まで培ってきたモノが形になった感じです。撮影後は何日か滞在して、M/Mと話し合いながらコラージュも行いました。


それでは今後の野望をお聞かせ下さい。

もっと仕事がしたいです。一人で作品を創ることは毎日のことなので凄く孤独感があるんです。全部自分一人の作業なので。誰かとやることによって違うモノが生まれますし、面白さもありますし、そこでちゃんとお金が発生することは良いことだと思います。いい循環なので、仕事を沢山したいです。そして自分が納得する作品を作っていきたいですね! あまりにも芸歴が長くなってきて、作品が嫌いになって、何回もやめたいと思ったことがあるので、野望が減っちゃったんですよね。まだ夢はありますが! 正直に言うと結婚して子供を産みたいですね! 一番クリエイティヴな出来事だと思います。後は最近、歌を出したので是非皆さんに聞いて頂きたいです! 『HIRUMANO CHOCHO』という曲で、2LEGOにプロデュースしてもらいました! 後は、スカーフの絵のアートワークなどをやりたいですね!



























FUMIKO IMANO