KEN SUZUKI

鈴木健
ISSUE 1
INTERVIEW TEXT YUSUKE KOISHI
KEN SUZUKI

鈴木健
複雑系研究者 / スマートニュース株式会社 共同CEO



新しい人間、その可能性。

我々は「ありのまま」で生きることができるのだろうか。アルベール・カミュの『異邦人』に登場する主人公ムルソーは、母の葬儀で涙を流さなかったことやその後の態度が非人間的だとされ、とある事件で死刑宣告をされてしまう。カミュは小説の自序に「お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるほかないということである」と書いた。一方、芥川龍之介は1920年代、『侏儒の言葉』の中で「危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である」と呟いた。これら二つの言葉の背後には共通問題が存在しているように思う。この社会では当たり前の常識が、実際のところはことごとく通用しないということを我々は経験的に知っている。通用しない常識を我々は暗黙知によって補完し、擬態化して生きる。そもそも、その常識や制度はどこから来ているのか。なぜ我々は生きにくいのか。そしてそれらに対する我々の感情、そして慣習はどこに起源を持つのだろう。

人間は多面的な人格や思想を持ち、相反する考えを複数同時、矛盾を抱えながら生きているという事実はファッションの領域では体感的な事実だが、
人間のアイデンティティの二重性という常識が、社会制度の中で受け入れられたことはあまりない。鈴木健はその著書『なめらかな社会とその敵』(勁草書房)を2013年に発表し、そういった問題が生物学的起源を持っているということについて問い、多領域で様々な賛否両論を引き起こした。研究者であり、株式会社サルガッソーとスマートニュース株式会社の共同CEO。思想家でありながら実務家でもある、複眼的な鈴木健の眼差しは数百年先を視野に入れている。人間には自由意思が存在するのか、新しい人間を作るためにはどういったことが可能かということを常に考えてきた彼に、そのクリエイティヴな視野を披露してもらった。


壁、ベルリンパウダー、
なめらかな社会

子供の頃のことを改めて聞かせてください。どんなことに関心がありましたか?

子供のときから自分にとって関心があることに対して周囲がそれほど興味を持っていないということが多くて、そのことに対して関心がありましたね。


当時を振り返ってみて、今の自分に影響を与えているような印象に残っている出来事はありますか?

ベルリンの壁が印象に残っています。子供の頃、私は両親の仕事の都合でドイツで育ちました。ベルリンに行ったとき、壁の側におそるおそる近寄り、
悪戯半分でごりごりと壁をほじくって壁の破片や粉を財布に入れて持ち帰ったことを今でも覚えています。ベルリンパウダーといったりしていしましたが。西側にいるからそんな危険ではない、と頭ではわかっているのだけれど、“壊してはいけないもの”を壊しているという感覚がありました。当時は頻繁に人が死んでいるというニュースを見ていましたし、実際に東から西へ脱出しようとして射殺された人々の慰霊碑があちこちに立っている。壁の近くに寄るとヒヤリとした恐怖を感じたものです。ある日、その壁が一瞬で壊れた日のことをよく思い出します。あともう少し待てば射殺されることもなかったという人たちのことを考えると、いたたまれない気持ちになりました。


恐怖を与えていた壁の上に、ある日突然、群衆が登って笑いながらハンマーを振りかざしている。強固だと思っていた壁が一瞬で壊れたわけですよね。

「こんな一瞬で」というのもそうですが、「あの壁を壊してもいいのか」ということを経験で知った瞬間でもありました。当時「あの壁を壊す」という選択肢が現実に存在していて、その決断に任意性があったということ、それを体感的に知ったというのは今振り返ると経験としてとても大きい。タブーだと思っている多くが実際は現実でも可能だということ、ただそれを誰もやっていないだけだということが。そして実際に壊してもいいということであれば、作ってもいいという考え方もできる。こうやって歴史を振り返ると、人間は与えられていたものがそもそも最初は「誰かによって作られたもの」だという事実を、感覚として知らないことが多いのです。貨幣に関してもそうですが、地域通貨というものが出てきたとき、「なるほど、貨幣も作っていいのか」と思ったものです。そういった体験はPICSY(伝播投資貨幣という鈴木健が自ら提唱した貨幣システム)を開発したことにもつながりますし、今の活動に通底しています。


法や制度でも似たようなケースがありそうですね。

一つ例があります。スマートニュースの事業がアメリカに進出するにあたって、アメリカの弁護士に対して法律相談したときのことです。アメリカだと最終的な法的判断、解釈や判決も究極的には合衆国憲法に則っているかどうか、ということが議論になります。さらには「則っとっているかどうか」というそもそもの部分が陪審員によって多分に判断されるので、結局のところはディベートで自分をどうやって正当化していくかにかかっている。ですから一審と二審で結果が正反対にひっくり返るケースも結構多い。アメリカではよくイノベーションが他の国に比べて起こりやすいといわれます。法的にケースがなくてもとりあえずやってみて、問題が起きてから判断、そして何か起きてもそれをいかに合衆国憲法の理念に則って正当化できるかという世界観になりますから、そこは大きな違いを生んでいるかもしれない。習慣的にルールが動的であるということを身体が知っていると、何事も試してみようという気にはなりますよね。そして遂には法律を作れる体感も出てくる。


陪審員の話でアルベール・カミュが『異邦人』で書いた主人公ムルソーを思い出しました。彼は母親の葬儀で涙を流さなかったということから非人間的だと陪審にみなされ、それが原因で死刑になります。ある意味では常識的判断に基づいて。制度が人間にカップリングしていて動的な分、人間の慣習や常識側が強固になる可能性もありますよね。

制度というのはそもそも人間が社会的に情報を処理していく上で、認知限界があることを認めた土壌で作られた建築物のようなものです。それはそういったものがないと、現実に起きている物事を処理することに限界があることに起因している。制度で補えない部分を我々は慣習や常識といったもので補っているけれど、その妙な違和感というのは、こういった与えられた設計物が我々の認識を蛸壺化してしまって、あたかもそれが本質的な制度であるかのように振る舞い始めることに起因しています。人間が仮に認知限界を超えることができたら、我々はこの複雑な世界を複雑なまま生きることができるのではないか。所与の制度を再考して、その限界はテクノロジーを使えば乗り越えられるのではないか。そういった視点が私の考えの元になっています。


人間はどうしても制度や慣習を、変えられない普遍的なものだと無意識に線引きしてしまいますね。

例えば言葉もそうですね。覚える前は日本語というのは不自然なものだったはずです。ただ使いこなすようになってしまえば、それを与えられたものだということを忘れてしまう。制度や慣習といったものも同様で、それが一度体に染み付いて身体化してしまえば、それが誰かによって作られたという認識がなくなってしまう。そして身体化して当たり前の存在になってしまうと、そこにはもはや新しく作ろうという発想はなかなか出てきません。認識のレベルでも同様の問題があります。例えばマーシャル・マクルーハンによれば、人が自分自身に自由意思があると認識し始めたのは、グーテンベルクが活版印刷を発明して、人が没入して印刷物を読むようになってからだという考えがあります。今は当たり前と思われている概念や認識の多くが、実は比較的最近に生まれたものであったり、曖昧な土台の上に長い間乗っているものであったりするということはよくあります。ファッションにもそういったものは結構ありそうですが。


ある意味ではファッションも慣習の設計ともいえるのかもしれません。その時々の人間の判断という不安定な部分をルールの構造に組み込まれているというところが。一方、何かのムーヴメントによって生まれたスタイルが時代を経ると、その意味が変容して使われていったりもしています。

自分自身を見た目、視覚的な言語で何かから遠ざけたり、近付けたり、社会に潜むまだ見えていない何かに顕在化させようとする点では、ファッションは非常に生命的な現象ですよね。動物の擬態だって進化するわけだから、人間と社会が時代を経て進化してしまえば、スタイルの意味が変容して進化していくというのはある意味で自然なのかもしれません。ただし、加工された認知プロセスをハックするというか、見たいように“見せないよう”にいかにしていくか、それによってどうやって生存戦略を提案するかというのは創造的なポイントなのかもしれないですよね。それはいかにテクノロジーが進化したとしても変わらない普遍的な部分だと思いますよ。


確かにこうであるだろうという一般的な価値観や常識をハックして、新しい見方を提案して、感覚を揺さぶるのが強いクリエイションだという考えが歴史を通してあります。見えていなかったものを顕在化させる。ハックしてハックされるという連鎖が人間のクリエイションの宿命なのかもしれません。

ハックの話になりますが、世の中には何かを有効にするためのハックと、何かを無効にするためのハックという2種類があります。何かを有効にするハックというのが今は全世界的に欠けていて、個人的にはそこに強い不満がありますね。固いシステムをハックするとなると、どうしてもそれはプロテストになりがちです。固ければ固いほど、プロテストする側が強くなれるし、壊れるときはあっという間だけれど、残るのは混沌というケースが多い。アラブの春も一つの例ですね。何かを有効にするためのハックが生まれるには、土壌としてある程度のやわらかいシステムが必要です。つまり、ルールを壊すとか作るとかいう前に、自然にそういったものができていくために、私はルールを変えるためのルールを作って、変えていきたいと思っている。例えるなら、プログラムではなくプログラミング言語を作ることに近いです。メタ的なレイヤーですね。


今回は著書の中の一部の思想しか紹介しきれませんでした。『なめらかな社会とその敵』のアップデートの構想や、これからやっていきたいことなどをお伺いできればと思います。

子供の頃、誰しもが試行錯誤で研究しているわけですよね。ただ、勉強しているうちに研究することを忘れてしまう。勉強した後に研究するとか、会社で働けば社会人になって社会で“survive”とか、そういう妙な常識が少しずつ変わっていくといいなと思っています。人間はそもそも生まれたときから社会人ですし、人類がもっと貧しかった頃は常に研究していくのが本来は当たり前の行為だったと思うので。本はこれから英語に翻訳して、多くの人たちと発展的な議論を深めていきたいと思っています。社会的なジレンマは国や社会を問わない普遍的な問題として存在しているので、様々な知見を交換していきたいですね。皆で本質的なアイディアを生み出し、実践していく流れが起きれば。世界は生成するものであって、所与のものではなく、我々全員が参加者であるという考え方を常識的な感覚として広げていきたい。ファッションにもそういうクリエイションが続々と生まれてきてほしいと思います。


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